【第二章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を

遥か遠い記憶

 ベッドへ横たわったキュリオの胸元に抱かれて目を閉じるアオイ。この穏やかな彼の鼓動とぬくもりを感じない日はない。
 いつも語りかけてくれるその美しい声と優しい眼差し、そしてあらゆるものから守ってくれるこの両腕がアオイの安息の場となっていた。

(……わたしの、おとうさま……)

 幸せなこの瞬間にアオイの瞳から一筋の涙がこぼれた。
 彼女は遠のく意識のなかで、愛されるべき両親から置き去りにされた過去をかすかに覚えていた。しかし、その記憶がいつのものなのかはわからない。もしかしたら……彼女が生まれる遥か遠くの記憶かもしれない。

"……ごめんなさいっ……あなたを置いて行ってしまう私たちを許して……っ……愛してる……"

 頬を濡らす感触があまりに冷たく、アオイは当時のことを鮮明に覚えている。だが、それが両親の涙なのか天が流す冷たい雨なのかわからない。まだ言葉を話すこともできなかったアオイは想いを伝えることすら許されず、離れていくぬくもりに縋ることも叶わなかった。やがて暗い森のなかで響いたのは、耳に耐え難い人々の断末魔やぶつかり合う激しい金属音だった――。


「……アオイ……」

 優しく涙を拭ってくれたのはキュリオの唇だった。

「安心しておやすみ」

(……涙を見るのは久しぶりだ。声も上げず、たったひとりでお前はなにを想っている?)

 そっと右手を翳したキュリオの指先から光があふれ、徐々に形を成して現れたのは無数の花びらだ。

(……この魔法はいつ覚えたものだったかな……)

 キュリオはアオイの心がすこしでも癒されるよう、彼女の好きな花の花弁を一面に降らせた。しかしそれらは一時の魔法でしばらくすれば光となって消えてしまう。初歩的なものにも関わらず、神童と呼ばれたキュリオが取得するまでに時間を要した数少ない魔法のひとつだった。

 そっと頬を撫でる手と全身に降り注ぐ花びらに身を委ねながらアオイは眠りに落ちていく。


――ザァッ……


 キュリオの風の魔法とは違うすこし強めの風邪が顔の横を走り抜ける。

「…………」

 浮上した意識に目を開けたアオイは見覚えのある風景に瞬きを繰り返した。
 耳には心地よい風が木の葉を揺らす音と川のせせらぎ。アオイの好きな聖獣の森とどこか似ていたが、野性味あふれる巨大な樹木が力強く根を張るこの地は"あの彼"が住まう別の場所だという認識はアオイにはすこしだけある。

『…………』

 視線を感じて目線を上げた先には、やはりあの金髪の青年の姿があった。
 美しい翡翠色の瞳に透けるような白い肌。光の衣のようなものを羽織っているが、キュリオのようにきっちり着こなしている感じには見受けられない。だが、大自然に溶け込むようなその装いがとても神々しく見える。

『……久しいな』

「…………」

 アオイの知る言葉のなかから意味を考えてみるものの答えがみつからない。
 幼子は言葉を返す代わりに彼のもとへ行こうと歩み寄る。

『そなたの足ではここまで来れまい』

 アオイを気遣うような言葉を掛けてくれた青年だが、迎えに来てくれるつもりはないらしい。
 足元には幼子の背ほどもある太古の樹木の根が幾重にも張り巡らされてアオイの行く手を阻む。いつもならば、キュリオが手を貸してくれるような場面でも彼はここに居ない。探しても無駄だということを直感で感じたアオイは再び金髪の青年を見上げる。

『…………』

 音もなく大樹の幹から舞い降りた青年はアオイと触れるか触れないかのところへ腰をかける。
 
「…………」

 言葉なく見つめ合うふたり。
 近況を報告し合うような仲ではないため話題など見つからない。しかもこの青年、愛想というものを持たずに生まれたため、感情というものがまったく伝わってこず、すぐ傍まで来たのは覚束ない幼子を気遣う……彼の精一杯のやさしさに違いなかった。

"あなたの、……おなまえは?"

 たどたどしい幼い声が青年の精神に語りかける。

"……我が名はエクシス。そなたは?"

「……あ、お……」

 名を問われたアオイは唇を動かし、なんとか二音を紡ぎだした。きっと、言葉のままならない幼子だからこそ、思念で会話するという高度な技を自然と身に着けたと思われるアオイだが、まだまだ体のほうは言うことを聞いてくれそうにない。

『…………』

 不意にひらりと舞う花びらがアオイの柔らかな髪に落ちて。
 "これはそなたの力か?"と言いたげな翡翠の瞳に首を横に振るも、アオイの頭上から降り注ぐ花びらは、まるで夢の出口を示しているかのように一点から落ちてくる。キュリオに抱かれているようなあたたかな花びらに目を細めていると――

『――花が好きなのか?』
 
 アオイはその声に大きく頷くと、突如視界が白んで何も見えなくなってしまった。
 以前にもあったこの感覚。体と離れていた意識が徐々に一体化するような不思議な感じだ。

「…………」

(……エクシス、さま……) 

 アオイにはまだ彼の名を口にすることはできないけれど、きっとまたすぐに会えるという確信を胸に彼の名を心に刻む。
 そしてなにより――

(……わたしのなまえ、ちゃんとおつたえできなかった)

 この日より、アオイは自身の名を言う練習に励むこととなる。


「私の名前はアレスです。アオイ様」

 キュリオが執務室で仕事をしているとき、アオイは侍女や女官らに囲まれながら別室でふたりの少年らと過ごしていた。
 はたから見れば黒髪の少年がにこやかにアオイの手をとって挨拶しているように見えるが、このやりとりはすでに百を優に超えていた。

「お、おれっ! カイです! アオイ姫様っっ!」

 負けじとグイグイふたりの間に割って入る剣士の少年が今度はもう一方の手をとって、これでもかと顔を近づけてくる。

「きゃははっ」

 ふたりの陽気な雰囲気に誘われて自然と笑い声がこぼれる。

「ほら、見なよカイ。アオイ様に笑われた。いまは私が名前を覚えてもらっているんだ。君はあとにしてくれないか?」

「俺はたった二文字なんだからアオイ姫様はすぐに覚えてくださるはずだっ! アレスは三文字だから後回しでいいだろ?」

「きゃはっ」

「それじゃあ私は四文字だから三番手だな」

 その声にアオイの表情が一際輝いた。

「おとー!」

「わわっ! キュリオ様!」

 名前の文字数から順番を決めようと豪語していたカイは慌てふためいている。

「ふふっ、楽しそうだね。君たちのお陰でアオイも上機嫌だ」

 アオイの頬へ口づけながら彼女を抱き上げる姿は娘を溺愛する父親そのものだった。

「キュリオ様はもうそんな風に呼ばれているのですね」

「ああ、"おとうさま"はすこしハードルが高いかもしれないな。そうなると私は五文字か……」

 真剣に悩むキュリオの様子に女官らが上品に笑っている。娘のこととなると国の一大事とばかりに頭を悩ませる悠久の王にもアレスはさすがだと羨望の眼差しを向けながらも、幼い彼はまだ諦めていないらしい。

「アレスです、アオイ様」

「…………あ、……」

 アレスの口元をじっと見つめたアオイが最初の一文字をなんとか紡ぎだす。愛らしい花びらのような唇をパクパクさせている幼子のなんと可愛いことか。

「そうっ! そうです! お上手ですっっ!!」

「……あ、お……い」

「……っ?!」

 皆の想いとは裏腹に、アオイがもっとも早くマスターしたのは自分の名だった――。

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