【第二章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を

握りしめられた手

 ――心地よいせせらぎの音が、まるで心音に同調するように耳の傍を流れている。
 例えるならば……故郷の静かな夜。
 愛する者たちが誰ひとり欠けることなく、笑顔で食卓を囲むことができた夜のように、何の心配事もなく心地よい眠りに誘われた夜のように心は安らいでいる。

 時折頬を撫でる手がさらなる眠りを誘い、身も心も満たされるような懐かしい感覚に青年は安心してすべてを委ねた。


 ――夢か現かわからぬ幻想的な風景に青年は立っていた。
 白い靄のかかる森の中を、水音を頼りに重い足取りで突き進む。
 まだ未墾の地。野性味あふれる樹木が深く生い茂り、あたりには獣の遠吠えや自分を狙う獰猛な生き物の血に飢えてギラついた視線が間近に迫っている。

 汗と泥にまみれた体は人間の匂いを強くまき散らしてしまう。
 一刻も早く水辺へと避難しなくては……と、焦る気持ちに突き動かされながら青年はひたすら足を動かす。

 やがて、キラキラと揺れ動く水面を木々の隙間から見つけた彼は、やつれた瞳を大きく見開いて――。
 鬱蒼と茂る深い森はこの美しい水源を隠すための要塞だったのか……と、納得させられるほどに清らかで神聖なものだった。

 空は分厚い雲に覆われて、日の光さえ差していないというのにその水源は光輝いていて。
 自ら光を放つ水源……という表現のほうが正しいかもしれない。あたりに漂う空気はどこまでも澄んでおり、一呼吸ごとに癒しの力が全身を駆け巡るような、大自然の力以上に神秘的な力に満ち溢れた水源だった。

 あまりの美しさに息を呑んだ男の視線の先、水源の中心では小舟がないにも関わらず、真っ白な女人らしき人影がみえる。

(……こんな場所に、女人……?)

 近くに村や街の気配はなく、さらにこの獣が多い森の中で女人がどうやってひとり辿り着いたのかも妖しいところだ。

『私は……幻覚でも見ているのか……?』
 
 その時、背後に迫る猛獣の足音と息遣いに驚いた男は足を滑らせ水辺に落ちてしまった――。


『――大丈夫ですか?』


 柔らかな声が瞳が、夢と現実とで重なって青年の意識が引き戻される。

『…………』

 言葉なく声の主を見つめていると、手を握られている感触に青年の視線が下がった。
 白魚のように美しい手が自身の右手を優しく包んでいる。
 繊細な指先から感じるぬくもりは、胸と目頭を熱くさせるほどの懐かしさだった――。


 かつての故郷を目指して空を舞う仙水の激しい頭痛は、穏やかな人格を豹変させてしまうほどのものだった。

 あのまま、彼女とともにあの場所で永遠の時を過ごせていたのなら……青年の心は贖罪の意識に苛まれながらも幸せだったに違いない。
 かつての父であった人物の言葉がすべてであり、自分が間違っていたのだと……。

 しかし、そんなものは所詮綺麗事であることを青年は身を以て思い知ることとなる。

「……っ!」

 あまりにも激しい頭痛に目が眩んだ仙水は、息を整えようと急降下し、枯れた木々がまばらに地を這うかつての森らしき場所へと降り立った。
 人間に穢された空と大地には黒い雨が降り注ぎ、いつかの時代では期待された人の知恵でさえもそれらを止めることはできなかった。
 だが死の世界が広がっていく一方、輝きを増したのは大和の故郷を流れる清流と、仙水の故郷にある女神の水源だった。それらは命あるものを守ろうと結界まで生成し、いまなお衰えることなく輝き続けている。

 しかしそんな奇跡の場所はいくつも存在しておらず、人々が住まう居住区の多くは仙水の浄化の力が極限まで高められた別の地にある。

(……神々が見放した世界……)

 神はそう遠くはない未来にこうなることを知っていたのだろうか……?
 
 人間が愚かで、救いようのない生物であることを知っていたのだろうか……。

「…………」

 彼女のいない世界は青年から生きる目的をも奪ってしまった。
 ともに乗り越えてゆけたなら……模索して歩んでいけたのなら、こんな世界でも最後の一瞬まできっと幸せだった。

『――貴方が私を必要としてくれるなら、私はいつでも貴方のもとへ――』

 そう言って手を握り返してくれた彼女の言葉と仕草に何度救われただろう。
 だが、そんな約束ももう叶わない。 

 心が伴わないままに王としての役目をこなしてきた仙水はとっくに限界を超えていたのかもしれない。

「……この世界の人間たちはあまりに愚かだ……。
自らの欲に滅びればいい――」

 遠くに見える戦いの狼煙へ吐き捨てるように呟かれた言葉は黒い雨の音にかき消され、故郷へと向かっていた青年の足は無情にも引き返そうと踵を返す。

――風が吹き抜けたと思った、その時……

『だいじょうぶ』

「……っ!」

 あどけない少女の声が精神に直接語り掛けてくるような不思議な感覚だった。
 さらにふわりと握られた右手。幼子のような白く小さな手に仙水の右手は包まれて――。
 白い光とともに姿を現した少女は、視線が絡むと柔らかく微笑んで霞のように消えてしまった。

「……っ待ってくれ!!」

 大きく目を見開いた仙水が手を伸ばすも、すでに少女の姿はなく……。
 足元には見たこともないガラスのように透けた愛らしい花が一輪その身を横たえていた。


「さきほどから熱心に見ているね。小川に魚でもいるかい?」

 そう言って顔を覗き込んできたのは悠久の王キュリオだった。
 穏やかな青空が広がる悠久の昼下がり。
 彼は愛娘が退屈しないようにと、執務の合間を見計らって森の小川へとやってきていた。

「きゃはっ」

 まだ言葉も話すことができないアオイだったが、よほど素敵なものを見つけたらしく極上の笑みでキュリオの胸元に顔を埋めてきた。

「ふふっ、私のアオイは今日もご機嫌だね」

 キュリオの手が優しくアオイの髪を撫でると、さきほどまであった物がそこにないことに気づいて小首を傾げる。

「……? 髪に差していた花がなくなっているね。川にでも落としたかな?」

 空色の瞳が川の流れゆく先を見渡すが、それは見つけることはできなかった――。

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