現実逃避をしている場合ではない。一歩足を踏み出し、エントランスに入ると、そこはホテルのフロントのようで、暖色のライトと白を貴重とした大理石のバランスは見事だ。ここに入るだけでも正装しなくてはいけない気がしてくる。

 緊張した面持ちでエレベーターを使って、指定された部屋まで向かう。たしか、先に宝木さんが来ているはずだ。

 自分の家になるはずなのに、どこか他人行儀にドアのチャイムを押すと、中から出てきたのは眼鏡をかけて優しそうな雰囲気を纏った中年の男性だった。栗色の髪がさらりと流れる。

 一瞬、部屋を間違えたのかと慌てたが、相手がすぐに私の名前を呼んでくれた。

「三日月晶子さまですね、どうぞ」

 ドアを開けて中に入るように指示され、私はおずおずと足を進めた。中も驚くほど広い。

「申し遅れました。私、こちらで直人さまの秘書をすることになった栗林(くりばやし)です。以後、お見知りおきを」

 きちっとスーツを着こなして、栗林さんはわざわざ私に頭を下げてくれたので、私も深く頭を下げて挨拶した。

 荷物が届いている自分の部屋を確認させてもらう。私が住んでいたマンションよりもかなり広く、この部屋だけで生活できそうだった。

 そして奥のリビングに通されると宝木さんはソファに座ってなにやら書類を眺めていたが、私に気づいて視線をこちらに寄越してくれた。

「荷物はあれだけか?」

「あ、はい。あの、色々と手配してくださって、ありがとうございます」

「べつに、俺はなにもしていない。じいさんが好きにしただけさ」

 ぶっきらぼうに告げられ、彼は栗林さんに今日はもうあがっていいことを指示した。

「晶子さま、なにか生活で不自由なことを感じられたら、遠慮なくいつでもお申し付けくださいね」

 栗林さんは私にそう優しく告げると、再度頭を下げて部屋を出ていく。玄関のドアが閉まる音が響いて、私はその場で動くことができなかった。