最愛の調べ~寡黙な王太子と身代わり花嫁~
王子の秘密





フェルナードは右側の綺麗な黒板の前まで歩くと、そこでイザベラを下ろした。

体温が離れ、寒かったわけでもないのに妙な寂しさを感じる。
そんなことを思ってしまった自分が恥ずかしく、イザベラは赤くなった頬を隠すように俯いた。
そんなイザベラの前で、フェルナードはおもむろにチョークを手に取り、黒板に慣れた手付きで文字を書き始める。

恥ずかしさも忘れ、イザベラはそこに書かれる字を凝視した。

『伝えることが遅くなってしまい、申し訳ない』

なにを、とは聞き返さなかった。
恐らくイザベラの予想は当たっている。


「……いつから」

それしか返せなかった。

その意味を正確に読み取ったフェルナードが、再びチョークを握る。

カッカッと黒板をチョークがこする音がする。
なんの音もしない広い室内で、その音だけが大きく響いた。

『一年半前、西の国との戦があり、そのとき受けた傷で』

そう書き終えると、礼装の襟元を緩めた。
白い首に一線の深い傷が見える。

深く抉り取られたような傷は、完全無欠の美しいフェルナードの中で異様に浮いていた。

「治らないのですか……?」

その傷の深さを見ればわかるだろうに、イザベラはそんなことを口にしていた。
問われたフェルナードが、困ったように眉を下げる。
初めて見る表情だった。
それなのに、イザベラはフェルナードの動かない唇から目が逸らせない。

(だって、まだ一度も声を聞いていないのに)

一年半前、ということは、二年前の慰問時は問題なかったのだろう。

(あの時、言葉を交わしていれば、一度でも交わしていれば、彼の言葉を聞けたかもしれないのに)

恐らく、イザベラが話しかけたとしても、彼は言葉を返さなかったかもしれない。けれどそれでも、萎縮なんてしないで、一言、ただ一言でも声をかけていれば、なにか違ったかもしれないのに。
もう聞くことができないと思うと、イザベラの心は絞られるように痛んだ。
聞いたことなど一度もないのだから、惜しむ必要もないだろうに。それともだからこそ、聞きたいと思ってしまうのだろうか。

「何故、今になってわたくしにそのような話を?」

アルゴルに帰らされるのではないのだろうか。
見ていた限り、フェルナードが発声できないというのは限られた人間しか知らないことのようだった。
もしかしたら国家機密扱いかもれ知れない。そんな情報を、国に帰すつもりの人間にするだろうか。
イザベラの問いに、フェルナードがなにか言いたげに唇を震わせる。




「歌姫である貴女を妻に迎えた理由がそれだからですよ」

突然第三者の声が聞こえて、イザベラはびくりと肩を震わせた。
振り向けば、少し息を切らせたサムエルが立っている。

「遅くなりました。犯人を保護者へ引き渡すのに時間がかかりまして」

そんなことを言いながら、イザベラとフェルナードに従者の礼をとる。

(犯人――ステラ嬢たちのことだわ)

歌わなくてよかった筈のイザベラをステージに引きずり出し、歌わざるをえないような状況を作り出したのはどう考えても彼女達だろう。先日の茶会でイザベラに嫉妬し、大勢の前で恥を掻かせてやろうとでも思ったのだ。なんとも浅い考えだが、恋に夢中で可愛らしくもある。
ステージに引きずり出された恐怖すら忘れて、イザベラは口を開いた。

「年若いご令嬢たちに、あまり厳しい罰などお与えくださいませぬよう」

サムエルが驚いたように目を見開く。

「……これは驚いた。あれらにお気づきでしたか。万事問題ありません。それぞれ父上達からちょっとした灸を据
えられる程度でしょう」

言いながら、主人の部屋の戸棚から酒の入ったデカンタとグラスを取り出しテーブルに並べる。

「どうぞ座ってお寛ぎください。話をいたしましょう」

じっと見つめられながら言われ、思わず怯んだが、そんなイザベラの手を掬うように取ったフェルナードが、ソファへとエスコートしてくれた。
今までなら無言でそうされることに悲しくなっていたかもしれないが、今はただその気遣いが純粋に嬉しい。

(馬鹿ね、イザベラ。なんて単純なの)

これではステラ嬢たち可愛らしいと笑っていられない。
そうしてエスコートされたソファに腰掛けて、イザベラはおかしなことに気付く。

「黒板……」

普通のテーブルかと思っていたが、天板が黒板になっていた。
デカンタとグラスが直接置かれたそこには、いくつかの文字と簡潔な地図が書かれている。
アルゴルの鉄、西の国、強化、延期、イザベ……。

ばんっ。

イザベラが無意識に文字を追っていると、フェルナードの大きな手がそこを覆って隠してしまった。驚いてフェルナードを見れば、向かいのソファに座ったまま俯いていて表情が見えない。
ともすれば怒っているようにも見えて、イザベラはざっと血の気が引いた。

「あっ……、不躾に申し訳ありません」

もしかしたら軍事に関することだったのかもしれない。それならイザベラが容易に知っていいことではないだろう。

「構いませんよ。本当に知られてまずいものは文字に残しませんから。それは王子が個人的に知られたくないことが書いてあっただけです」
「個人的に……」

どちらかといえば軍事機密より知りたいが、教えてもらえるはずもないだろう。
フェルナードは黙々と濡れた布で文字を消しながら、サムエルを睨みつけていた。

(なんだか、印象が変わったわ)

秘密を話してもらったからだろうか。特にまだ多くの言葉を交わしていないというのに、イザベラのなかでフェルナードのイメージが大きく変わってきたような気がする。
ここが彼の私室で、彼が寛いでいることも影響しているのだろう。今までイザベラが勝手に作り上げていたイメージより、ずっと親しみが持てる。

この彼なら、イザベラが人前で歌えないことも、許してくれるような――そんな印象さえ受けた。



「さて、先程のお話の続きですが」

この政略結婚の経緯も忘れ、思わず夢見がちなことを考えたイザベラをサムエルの鋭い声が現実に戻した。

「姫には大変長く誤解させたままでいましたが、ご覧の通り、我が王子は先の西の国との戦いで声を失いました。この事実を知っているのは国王夫妻に国の上層部、それと騎士団の各団長、そして私を筆頭とするごく一部の者達です。部屋の見張りの者にも、秘密を知っている者を配属してあります」

結構な数の人間が知っているような気もするが、この城の大所帯振りを考えたら妥当だろう。

「……何故ばれないのですか」

今まで普通に話しをしていた者がある日突然話せなくなったら、おかしいと思うものではなかろうか。

「元々、口数が多くはなかったので、そこまで交流を持たない者にはわかりません。騎士団の中には怪しんでいる者もいるようですが、忠誠を誓う者ならば知られても特に問題はない。大体、別に秘密でもなんでもないのですよ」

えっ。

秘密ではないのに今更になって打ち明けられたイザベラとしては複雑である。

「フェルナード王子がなかなか話す機会を得られなかっただけです」

しれっとサムエルはそう言うが、果たしてそうだろうか。
晩餐のときもあの丘でも、茶会のあの日でも、なんなら初めて顔を合わせたそのときでも、言おうと思えば言えたような気がするのだが。
フェルナードを見ると、ぱちりと目が合ってすぐ、気まずげに視線を逸らされた。

「秘密ではありませんが、そこを突いてどんな災いの種が湧くかわかりません。王子は唯一の王位後継者ですので、後継者争いはないにしても、どこから反感の糸が飛び出るかわかったもんじゃありませんからね。なにせ我が国は大きい。今は従順に従っている有力貴族たちも、裏ではどんな姦計をめぐらせているかわかったもんじゃありません」

唯一の後継者を戦に出すアステート国王にも驚きだが、どろどろとした国内事情もこわい。
アルゴルでは、王族としての規模も小さい分、皆がみな、たまに喧嘩もするが家族のような環境だったので、貴族だ反感だ姦計だの、イザベラにとって縁遠いものばかりだ。

「そこで、貴女に白羽の矢が当たったのですよ」

サムエルが酒を用意しながらイザベラを射抜く。
思わず差し出されたグラスを受け取り損ねそうになった。

「天使の歌と名高い貴女を娶り、フェルナード王子のカリスマを維持しようと考えたのです」

はあ。
サムエルの力強い言葉に、イザベラは相槌も打てなかった。


「正直、騎士団に関しては問題ありません。過去幾度も王子と共に死線を越え、王子の戦略によって命を救われた者も大勢います。それは王子も同様です。信頼の上に成り立っていますので、今更王子が負傷して声が出なくなったところで彼らが裏切るとは思えない。問題なのは、虎視眈々と権威を狙う貴族の豚どもです」
「豚」
「そうです。豚です」

思わず反芻したイザベラに、サムエルがやはり力強く返す。フェルナードは顔を手で覆いうなだれていた。

「貴族達が納得するだけの材料が欲しかったのです。王子が声をなくしても、王子たりうる存在であることを、形にして主張する必要がありました。そこで、イザベラ姫の出番です。我が有力貴族には、過去の慰問にて貴女の歌を聴いた者が多くいる。それを利用して、王子がその地位を磐石なものにするまでの暫しの間、貴女に王子の盾となっていただきたいのです」
「盾」
「そうです。盾です」

先程と同じやり取りを繰り返し、イザベラとサムエルは暫し見つめ合うこととなった。
フェルナードが地位を確立するまでとは、どういう意味だろうか。先程サムエル自身が言ったように、彼はたった一人の王位継承権を持つ王子である。今更地位の確立など必要だろうか。そもそも盾とは、一体イザベラはどうすればいいのか。

「今、我が国は水面下で西の国と攻防戦を行っております。まだ表沙汰にはなっておりませんが、それも時間の問題でしょう。この西の国との戦を制すれば、我がアステートには真の平和が訪れるといわれております。過去、何代かの時代にわたり繰り返された積年の相手との戦に、フェルナード王子が決着をつけることで、戦馬鹿と王子を愚弄する貴族達を制したいと思っております」

アルゴルでは、フェルナード王子は戦神として音に聞く活躍ぶりだった。国の守護者とまで言われている王子に不満を抱く者が、まさかアステート国内にいるとは予想もしなかった。

ちらりとフェルナードを見ると、困ったように眉根を下げている。




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