勘違いも捨てたもんじゃない
恋は冒険の始まり

「ところで、若、その髪の毛はいつ元に戻される予定で?」

…本当に…思いついたら突拍子もないことをする。…昔からだからな…。

「明日はまだこのままだ。土曜に黒に戻す」

「左様ですか。もう…、何の連絡もなく、お一人での行動は慎んで頂かないと…」

世話がやける奴…。

「解ってる。取り敢えず、明日の朝で終わりだ」

見える場所に車が停まった。

「若、車が来ました」

「何だ…こっちに回すように伝えていたのか」

「はい、先ほどの連絡の際に」

「ん、…じゃあ、会社に行くか武蔵…」

「畏まりました」


速い足取りで車に近づくと後部席のドアを開けた。

「…どうぞ」

「ん」

黒いボディー、スモークのかかった窓。車を静かに出した。

「なあ、武蔵」

「…はい」

「この辺りにはオープンテラスのあるカフェは無かったな」

「そうですね、無いと記憶しています」

「あったらいいと思わないか?」

「しかし…、ここら辺一体は中々…土地の買収が難しいかと思われます。住宅街です、昔からの地主が多く、簡単には手放したりしないでしょう」

「…そうか」

「金銭に関わらず、誰も長く住めば離れたくないでしょうから」

「ん、そうだな」

未だに比較的自然が多く、カフェテラスなら、何もしなくても景色はいいだろう。この環境だからこそ、住んでいる人間から奪うような事はしてはいけない、か。

「じゃあ、土地代、いくらなら借りられるところがあるかな…」

「賃貸ですか?若…何やら悪い病気が出ましたか?」

何がなんでも造りたいんだな…。

「何言ってる、悪くは無い。誰かと一緒に…景色を見ながらゆっくり珈琲を飲んで話ができたら、いい場所だと思っただけだ」

ははぁ…なるほど、ね。…さっきの…。遠くからでしか見えなかったからどんな人か解らないけど。あの女性…。

「それだけの為に店を造るおつもりですか?」

…。

「それだけって訳じゃない、店は店だ。客が利用するんだ、普通の事だ。ここら辺はそんな店が無い。この環境で、住んでいる年齢層の割合、付近の企業の業種が解れば静かな憩いの場所にもなる。俺はいいと思うけどな。自由に飲める珈琲と、定番の豊富なランチメニュー、ドルチェ、…とんとんでできればいいくらいだ。何も変わったメニューを出すとか、突拍子も無い事を考えている訳では無い。遅く迄開けておく必要も無いだろう」

もう殆ど構想はできてるじゃないか。

「はぁ…。では、早速次の会議にかけてみましょうか」

「ああ」

「来週には大事な用件も控えておりますから、必ず忘れず元の黒髪に戻して頂かないと…」

「解ってる。だから土曜には戻すと言ってるだろ?戯れは終わりだ、解ってる」


昨日、髪色を変えて一人で初めて電車に乗ってみた。驚いた。毎日、こんなに疲れる思いをして会社に来てるなんて、仕事でも疲れ、一体会社員というのはどんな日々を送っているのか…。これ程だとは思わなかった。
吊り革を握りながらそんな事を考えていた。んん?
中年のオヤジが妙な動きをしているのが解った。その男、身動きが取れない事を装うようにして、女性の後ろにくっつくように立った。それ程ぎゅうぎゅう詰めでも無い。不自然過ぎるではないか。
……ぁあ゙、さては痴漢するつもりか…。
右手は吊り革、左手は鞄を持っているようだった。だがその左手だ。鞄を脚に挟むようにすると女性の尻に下から手を当てたようだった。あ、あいつ…やっぱりやりやがったな。
ジーッと当てたまま。下から持ち上げるように触れていた。……どう見ても痴漢だろ…。だけど、当たってるだけだと言い逃れる事もできそうな触り方にも取れた。いや、故意だ。この…ど変態やろうが。ずっと触れてんじゃない。女も女だ。違和感は多分にあるはずだ。振り払うとかしないのか…降りるまで我慢するのか…痴漢だって言えばいいのに。…クソッ。

少しずつ間を詰めていった。オヤジの隣に立った。周りに聞こえない程度に上から耳元で囁いてやった。

「…くそオヤジが…解ってんだぞ…。直ぐにその手を引っ込めろ。…なんならその左腕、折ってやってもいいんだぞ。……大事な利き手なんだろ?暫くは自慰行為も出来なくなるけど、いいんだよな?」

あ゙ひ、ひっ。
フン、弱っちいもんだ。
蚊の鳴くような声で…次の駅で降りますから、許してくださいなんて引き攣った顔で震えて懇願する。ビビり過ぎだってぇの。
だったら最初っからするんじゃねえよ。

「いいか、二度とすんなよな、あ゙?…いつもアンタの事、見てるからな」

ひぃっ。

フ、これだけ言っておけばまず大丈夫だろ。腰でも抜かしたんじゃないかと思った。ヨタヨタと次の駅で降りて行った。

仕方ない。乗り掛かった船だ。
あんたが降りるまで後ろに居てやるか。別の痴漢なんてそうそう居ないだろうけど。

そうして昨日はその女性が無事下車するのを見届けたんだ。
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