【第一章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を

アオイの異変と真夜中の叫び

――キュリオの襟元にしがみついたままアオイは小さく震えていた。いままでにないその怯え方にキュリオの胸には不安が広がっていく。

「どうしたんだい?」

「……っふ……ぅっ……」

わずかに顔を持ち上げた彼女は何か言いたげな表情を向け、それはまるでキュリオに懇願するような……そんな眼差しだった。
 すると、アオイの頭のなかでまた夢の声が響いた。

"……たす、け……て……"

「……っ!?」

アオイは言葉も吐き出せず、身に起こる異変に戸惑い目を見開く。
そして先ほどの体の痛み、息苦しさが徐々に蘇って――

これが生にしがみ付く者の叫びなのか、死を目前にした者の恐怖なのか……。

考えずともアオイにはわかっていた。

(これは誰かを想う心の痛み……――)

"あの人を……"

"……彼を、たす……け、て……"

"……おね、が……い……"

「…………っっ」

「アオイ?」

頭の中の声が止むと同時に、アオイの意識はそこで途絶えてしまった。ダラリと下がる小さな手に激しく動揺したキュリオはアオイの体を抱きしめ、咄嗟に癒しの力を手中に集めはじめる。

「アオイッ!!」

普段冷静なキュリオが赤子の異変に激しい動揺をみせる。
みるみるうちにその体は熱を失い、呼吸が弱くなっていく。それはまるで――

―――死を連想させる人体の反応―――

光に包まれたアオイの体はキュリオに抱かれたまま城内を移動する。

「ガーラント! ガーラントはどこにいるっ!!」

聞いたこともないキュリオの悲痛な叫びに燭台(しょくだい)を翳(かざ)した大臣や家臣、女官らがバタバタと集まってきた。

「キュリオ様っ! いかがなされましたっっ!?」

息を切らせた主の様子からただ事ではないことがわかる。後方では叫びの中からガーラントの名を聞きとった家臣の一人が彼を呼びに魔術師の塔へと急いだ。

「アオイの様子がおかしい! 至急ガーラントを呼べっ!!」

「はっ!! すでに家臣が呼びに走っております!! 今しばらくお待ちを!!」

 寝静まり始めていた城内は慌ただしく動き始めた。至る所に火が灯され、広間へと集まった女官や侍女たちは何もできず涙を浮かべるばかりだ。

「……こんな事って……」

「しっ……縁起でもないことを言うんじゃありません。キュリオ様がおられるのだから、万が一にも命を落としてしまわれるなんてありえるものですか!」

動揺する侍女を叱咤した女官だが、そう言う彼女の声や手は小刻みに震えている。キュリオに抱かれ癒しの力に包まれているにも関わらず、蒼白のまま一向に目を覚まさない赤子が涙に滲んで見えなくなってしまわぬよう、袖で目元を拭った女官。

――自室の火を灯し、読みかけの書物へ目を通そうとしていたガーラントだが、突如激しく扉を叩かれ顔を上げる。

「ガーラント様! 大至急広間にお越しくださいっ!! キュリオ様がお呼びでございます!!」

「……なんじゃと?」

焦りの滲む家臣の叫びから緊急事態であること理解した大魔導師は急いで扉を開く。

「わかった。すぐ向かおう」

「お願いします!!」

胸中に広がる嫌な予感に眉をひそめ、古びた杖をつきながら足早に広間へと続く廊下を歩く。

(キュリオ様が夜中に儂を呼ぶなど今までほとんどなかったはずじゃ。……一体何が起きておる?)

バスローブのままアオイを抱えるキュリオの髪がわずかに乱れている。寝起きの彼でさえそのような姿を見せたことがないため、取り乱していることすら気づいていないのかもしれない。

「キュリオ様っ!!」

広間の扉が勢いよく開け放たれ、息を切らせて駆けてくるガーラントの声が間近で聞こえる。

「こちらでございます! ガーラント様!!」

家臣のひとりが駆け寄り、彼をキュリオのところまで案内する。
すると広間へ足を踏み入れたガーラントは、キュリオの癒しの光がとめどなくあふれ出て広間を満たしていることに気が付いた。

「キュリオ様……っ! ガーラントでございます!!」

「ガーラント……」

力なく顔をあげたキュリオ。まるで廃人になってしまったかのような変貌ぶりに大魔導師は驚いた。
そしてその原因は――

「……なんということじゃ……」

王の腕の中でぐったりとしている赤子の姿が視界に入り、片膝をついたガーラントが悲しみの色を滲ませる。
赤子が纏った癒しの光がいつまでも消えないのは、キュリオが力を注ぎ続けているからだけではない。彼女の状態が悪いまま変化がないという現れなのだ。

もっていた古杖を絨毯の上に置くと、ガーラントはアオイの胸元に手を当ててみる。

「……心の臓の動きが弱い……キュリオ様のお力が効かぬなど怪我や病ではありませぬな……」

呼吸や心音は今にも止まってしまいそうなほどに弱々しく、体はぬくもりを完全に失っている。

「彼女は……アオイはひどい夢を見ていたようだ……」

「夢……?」

「私の呼びかけで一度目を覚ましたが、そのまま泣き続けて……」

「……そうでしたか……」

「まるで夢と現実の区別がつかないようだった。ひどく怯えて、必死に何かを訴えていた……」

すがるようなアオイの瞳と手が脳裏から離れない。

(……間違いなく彼女は私に懇願していた。一体何を……)

幼いアオイの意志を汲み取ってやれなかったことを後悔し、絶望するキュリオ。願いを叶えてやれればこのようなことにはならなかったのでは……と思わずにはいられなかった。

「キュリオ様、貴方様がおられるのですから必ず姫様は助かります! お気を確かに!!」

この世界で唯一、死者以外を復活させられる万能の力を持つのはキュリオだ。彼がダメならば他の誰にも彼女を救う手だてはない。

「……あぁ、わかっている……」

そう言いながらもキュリオの白い手は小さく震えていた。たったひとりの愛する者を失うかもしれないという恐怖がいま彼を支配しているのだ。

「なんにせよ、急がねばなりませぬ。姫様が仮死状態になるのも時間の問題ですじゃ。心の臓がまだ動いておるのに硬直がはじまるなど……これではまるで……」

硬くなりつつある赤子の関節に手をあてたガーラントの表情は険しくなる一方だった。そして彼の言葉にビクリと肩を動かしたキュリオは力強くアオイの体を抱きしめる。

「……どうしたんだいアオイ? 私を驚かそうとしているのかな……?」

「……お父様を困らせるなんて、アオイは悪い子だね……」

「……キュリオ様……っ!」

後方で待機している女官たちの瞳から大粒の涙がこぼれた。
見たことのない主の悲痛な姿は見るに耐えられず、やっと訪れた彼の小さな幸せが儚くも今……目の前で消え失せてしまうかもしれないのだ。

「…アオイ…ッ…」

キュリオの美しい瞳からこぼれ落ちた涙は力なく横たわるアオイの顔にポタポタと流れ落ちた。しかし彼女に反応はなく、王子の愛で蘇る姫の話など、所詮おとぎ話に過ぎないことを彼は痛感する。


――暗い水の中をどこまでも落ちていく少女……――


アオイの意識は彼女のそれと同化し、共に底のない闇へと引きずり込まれていく。

(……もう、抗う力など残っていない……)

体を動かすどころか、指の先さえ動かすこともできない……。

"…アオイ…ッ…"

(……どこかで私を呼ぶ声がする……)

(――様?)

先ほどから頬に感じる熱い涙。

瞼に焼きついて離れない、稲妻のような強い眼差しに……
私を守ってくれた大きな翼。
そして何よりも優しい彼の腕。

(……私の、……愛しい……)

少女の閉じた瞼からは涙が零れ、体からは想いが光となってあふれだす。

やがて薄れゆく意識と共に、愛しい彼の名も……忘れたくない想い出さえも暗闇に飲みこまれていく。

"……ごめんなさい……私のせいで……"

胸を締めつけるのは自責の念と、相手を思えば思うほど許せない己の弱さ。

"…………"


――全てが無に帰す――


小さなアオイの鼓動はその瞬間、命の音色を刻むことを止めた――。















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