【第一章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を

狂い始めた歯車

ガーラントが暗い表情を浮かべる中、キュリオを先頭とした集団はあっというまに悠久の門へとたどり着いてしまった。やがて門が開くと、数人の家臣とともに目の前には真っ白な馬車が出迎えていた。

「お帰りなさいませ! キュリオ様! ……あ、あのっ……」

赤子の安否に触れてよいかどうか戸惑っている様子の彼らにキュリオは笑みを向ける。

「ありがとう、心配かけたね。彼女はこの通り元気だ」

異空間の暗闇を抜け、悠久の朝日を浴びたアオイは眩しそうに目を細めている。その当たり前の反応にキュリオはまた涙が出そうになった。

「……っ……」

家臣らの歓喜の声を耳にしながら涙を堪えるようにアオイの柔らかい頬へ自分の眦を押し付けると、愛おしいぬくもりを二度と手放すまいと彼女と見つめ合ったまま馬車へと乗り込む。

「キュリオ様……まるで恋人に接しているかのようだ……」

彼の飾らないスマートな愛情表現に家臣たちは頬を染め、見つめ合う二人の様子を夢心地で魅入っている。

「ほれ、無駄口ばかり叩くでない。キュリオ様も姫様もお疲れじゃよ」

「……はっ! 失礼いたしましたガーラント様っ!!」

家臣を引き締め、ガーラントも別の馬車へと乗り込むと馬はゆっくり歩き出した――。

「キュリオ様! お嬢様っ!!」

 やがて帰還したキュリオと元気なアオイの姿に城中が涙と感動に包まれ、彼女は泣いて喜ぶ女官や侍女に代わる代わる抱かれたまま一向にキュリオの元に戻ってくる様子を見せなかった。

「キュリオ様、誠にお疲れ様でございました。姫様のことは侍女らに任せ、少しお休みになられてはいかがですかな?」

部屋にも戻らず、昨夜飛び出した姿のままソファに身を預けるキュリオを見たガーラントが気遣うように声をかける。

「彼女たちにも随分心配かけたからね。もう少しあのままでもいいんだが……」

「そろそろアオイを返してはくれないかと待っているんだ」

「キュリオ様……」

その言葉に少々驚いたガーラント。しかし見ての通り、このままでは今日一日彼女が戻ってこない可能性もあるため、慌てて近くの女官に赤子を連れ戻すよう頼む。

「畏まりました。直ちに」

ズカズカと足音を立て、その中心に踏み込んだ女官は大きく息を吸うと声をあげた。

「貴方たち! お嬢様はお疲れですよ!!」

それでも口を尖らせる侍女らに「いい加減にしなさい!!」と彼女は再び大声をあげている。それを見ていたガーラントは、「ほぉっほぉっほぉっ」と目尻を下げたが……

「…………」

キュリオは無言のままだった。
ようやく腕の中に戻ったアオイを抱きしめ早々に立ち上がる。別の女官へ温めたミルクと水を持ってくるよう指示するとそのまま広間を出て行く。

「キュリオ様……お怒りになってしまわれたかしら……」

彼のあまりにも素っ気ない態度に不安を隠しきれない女官や侍女。

「あの子にあんなことが起きてしまった後だからのぉ。手元に置いておかねば、ご不安なのじゃろう」

一連の出来事を目にしてきたガーラントはキュリオの心が痛い程わかる。そして長い年月、彼を傍で見てきたからこそ言えることだった。


 ――階段を上がっていくキュリオは、若干強張りの残るアオイの体を優しく擦ると自室に入るなり湯殿へと向かう。
足も止めず、歩きながらバスローブの紐を解き、アオイを包む寝間着を脱がせる。やがて肩から床へと落ちたバスローブもそのままにキュリオとアオイは白い湯けむりの中へと消えて行く。

「…………」

 先程から口を閉ざしたままのキュリオの顔をじっと見上げる小さな瞳。珍しく彼はその眼差しにも気づかず湯の中を進む。
そしてようやく立ち止まったキュリオは比較的浅い場所へ腰を落ち着け、腕に抱いていたアオイを膝の上へ座らせる。どうやら彼は赤子が肩まで湯に浸かれる場所を探していたようである。

「…………」

望んで二人きりになったはずなのだが、キュリオはどこか上の空だ。いつもは返事のないアオイへ向かって一方的に話しかけている彼だが、何か他のことを考えているようだった。ただ小さな体を癒すように優しい手だけが一定のリズムで肌を滑る。

「……?」

いよいよその様子に不安になった赤子はわずかに違和感の残る右手をあげ、キュリオの艶やかな髪を握り精一杯の力を込めた。

「……アオイ?」

やんわりと髪を引かれ、キュリオは我に返ったように膝の上のアオイに視線を落とす。すると、愛くるしい瞳が何か言いたげに近づき、彼女の濡れた唇から言葉が漏れる。

「っぅ、……」

声のトーンから彼女が不満をもっているだろうことは十分理解することができた彼は、湯殿を見渡してハッとする。

「……すまない。どうやら考え事をしていたらしい」

広間でアオイを受け取り、腕の中に戻った彼女のぬくもりに安堵して女官にミルクと水を頼んだところまでは何となく覚えている。しかし、どうやってここまで来たのか記憶にないのだ。

「お前を無視していたわけじゃないんだ。怒らないでおくれ」

想いを伝えるように湯に濡れた彼の手がそっと赤子の顔に触れ、優しく頬をなでる。ところが、いつもならば可愛い笑顔を向けてくれるアオイが今日は許してくれないらしい。
彼女の真ん丸な瞳は瞬きもせず、キュリオをとらえて離さない。

「アオイには叶わないね……」

小さく笑みをこぼしたキュリオは観念したように独り言のごとく呟く。

「君が皆に愛されるのは嬉しい。しかしそれが……不快でもあると気づいてしまったんだ」

「……?」

言葉の意味がわからないアオイは目をぱちくりさせ、それでもなおキュリオの言葉に耳を傾けている。

「……どうすれば早くふたりきりになれるんだろうってね。広間にいた時そればかり考えていたんだ」

「それで気づいたらここにいたってわけさ」

「……んぅ、っ……」

キュリオの言葉に語尾を強める言葉を返すアオイ。正確には彼女が何と言っているのかまではわからないが、キュリオなりに理解し頷いている。

「そうだね……考え方を改めなくてはいけないね」

(本当に私はどうしてしまったのだろう……)

今までにない屈折した考えにキュリオ自身も苦しんでいるようだった。しかし、無意識にそう思ってしまうのだから止めようがない。

 湯殿から上がり着替えたキュリオは、だいぶ良くなってきたアオイの体の強張りを確かめている。

「あぁ、だいぶ良くなっているが無理に体を動かしてはいけないよ? アオイ」

「きゃあっ」

キュリオに撫でられる感触がくすぐったいのか、先ほど正直に心の内を話したから許してくれたのか……アオイはいつものように頬を染めて笑いかけてくれる。

「ふふっ、お前は時々私の言葉が理解できているのではないかと思うときがある」

「……?」

こうして語りかければ必ず反応がある。
もしかしたらこちらの表情からある程度は判断しているのかもしれないが、今はそれで十分過ぎるほどに幸せだと思っていた。

「でもね……私は少々欲深いようだ」

「こうして満たされたと思っても、すぐにお前を求めてしまう」

にわかに目付きが変わったキュリオ。

「……」

すると腕の中のアオイは無言のまま小さく身じろぎし、彼のバスローブの襟をクイと引っ張った。

「……あぁ、おなかがすいたのかな? ミルクにしようか」

またハッとして我に返る。そして気を取り直すように女官に用意させたミルクと水を探しはじめる。
さすがは手慣れた女官だけあり、ふたりが湯殿にいることを念頭においてミルクの温度を高めに調整していたのだろう。キュリオがミルクボトルに触れるとちょうど”人肌程度”になっていた。

"人肌程度"のボトルと水の入ったグラスをベッドの脇机に運ぶと、彼は慣れた様子で赤子にミルクをあげていく。

最初はボトルを見て戸惑いを見せていたアオイだったが、随分ふたりとも成長した。ミルクをあげることにキュリオは慣れ、彼の手からミルクを飲むことに慣れたアオイ。

「次のミルクは私が用意しよう」

赤子の頭を左手で支えながら、指先で彼女の髪をなでる。可愛らしい彼女の姿に穏やかな笑みを浮かべるキュリオだが、いつも通りボトルの三分の一ほどでアオイの食事は終了してしまう。

「お前は本当に小食だね?」

(成長に影響しないといいのだが……)

だいぶ間隔をあけたと思っても、彼女はいつもそこでミルクを飲むのを止めてしまうのだ。

(或いは、もう少し体が大きくなればまた変わるのだろうか?)

ミルクが卒業となれば、料理長ジルに相談してみるのもいいかもしれない。彼ならば、少量でも満ち足りた栄養分を摂取できる美味い品を考えてくれるはずだからだ。

そんなことを考えながら脇机にミルクボトルを戻すと、キュリオは水の入ったグラスに口をつける。己の水分補給は手短に済ませ、彼女の背中を優しく擦りながら窓辺へ向かった。

(こうしているとアオイはすぐに眠くなるんだ)

いつものやりとりを思い出しながら幸せを噛みしめるように彼女の顔に顔を寄せる。日の光が赤子の眠気を奪ってしまわぬよう遮光のカーテンをサラリと手繰り寄せた。
ゆったりと歩きながら瞼が完全に閉じる時を待つが、彼女の長い睫毛が幾度となく頬に触れ、不思議に思ったキュリオはアオイの顔を覗きこんだ。

「おや? 眠くないのかな?」

そこまで言ってようやく思い出す。

「あぁ、アオイは大樹の露を口にしたのだったね」

普段は精霊しか口にしないと言われている大樹の露。そのお蔭で彼女らは他に何も食さずとも長い時を生きられるのだという。精霊の国にのみ存在する聖なる物のひとつだが、精霊王の差し出すものならば何も心配する事はないはずだ。

「もしかしたらしばらくは気が溢れて眠れないかもしれないな」

昨夜のようなことはもう二度と経験したくない。しかしまた起らない可能性など誰にもわかりはしないのだ。だが、アオイを目覚めさせた大樹の露の効果がしばらく体に残れば幾分安心できる気がする。

「けれどお前の体はまだ本調子ではない。今はゆっくり休むのが一番だ」

アオイを腕に抱いたままキュリオはベッドへ横になる。美しい銀の髪がシーツに広がり、その上に小さな赤子の体が乗っているが、そんなことキュリオは微塵も気にならない。鼻が触れてしまいそうな程に顔を近づけ、キラキラしたアオイの瞳を見ていると静かな湖面のように心が安らいでいくのがわかる。

「やはりお前と二人きりがいい……」

「……アオイはこんな私をどう思っているのだろうね……」

(……嫌われてしまう……だろうか……)

軽快なリズムを刻む赤子の心音に安堵したキュリオは急速な眠気に襲われていく。そして、まるで彼女の眼差しに癒されるようにキュリオはゆっくり眠りに落ちて行った――


< 120 / 212 >

この作品をシェア

pagetop