恋愛生活習慣病
バランスの良い食事を、規則正しく食べましょう。

act.5

◇◆◇

ドジばっかり。彼女は今日の仕事ぶりを思い出して、地面に穴を掘って自分を埋めたくなった。
原因はあれだ。今朝、愛用の眼鏡をある人物に取り上げられたせいだ。そうに決まってる。
落ち込んだ気分がイライラとした気分になり、大股で従業員用の裏口から歩きだすと「お疲れ様」と誰かの声がした。

(え?)

顔を上げると、視線の先に男性が立っていた。眼鏡を掛けていないので薄暗い街灯の下では顔は良く見えない。
きょろきょろと見渡しても自分の他には誰もいない。もしかして自分に声を掛けたのだろうか。


「どこ見てるの?」


男はクスクス笑いながら歩いてくると右手で彼女の手を取り、左手で彼女の頬に触れた。
……あ。
至近距離で人物を確認し、ため息が出た。彼だったのか。


「眼鏡を返してください」


睨みつけても可笑しそうに笑うばかりの男は彼女の勤務するホテルの専務だ。
地味な裏方勤務の彼女と専務の肩書を持つこの男の間には、同期という共通項がある。

同期入社とはいえ、会長の息子という血統故に他の同期とは違う雲の上の存在だった。
なのになぜか入社当時からなにかと絡んでくる。大人げなく悪戯したりからかったりしてくるので迷惑以外の何物でもない。御曹司で美形で人当たりが良く明るい性格で女子社員には大人気の男だとしても、彼女にとっては苦手な部類で関わりたくない相手だ。
入社の翌年にニューヨークに赴任してほっとしていたのに、先週からまた東京本社に着任し、専務のくせに一般社員の彼女にやたら関わってくる。

今朝は眼鏡を取られた。
これがないと視界がぼやけて何も見えない。
おかげで仕事にも支障が出て失敗ばかりしてしまった。


「どうして?君は眼鏡がないほうが似合うよ」

「似合う似合わないじゃないんです。ないと困るんです」


分厚い眼鏡は世界から守ってくれる。嫌なことや、怖いことから。
こんなブスは、少しでも目立たなく――――。


「こんなに美人なのに隠すのはもったいないよ」

「……っ、からかうのはやめてください」

「それに邪魔だよ。眼鏡を掛けたままだとほら」


キスをするのに邪魔だろ。

笑みの形をした男の唇が、彼女の口に食らいついた。


◇◆◇


っていう妄想をしながら太陽礼拝のポーズ。

ネタは今朝、従業員裏口ですれ違った、このビルに入っているホテルの従業員さん。眼鏡っこ女子社員さんです。眼鏡をとったら美人そうな感じの。
地味な眼鏡っこ美人、いいよなあ。
眼鏡をとったら誰!?うわ、すごい美人!的な。
裸眼1.5の私には憧れの眼鏡。まあ私の場合、眼鏡を掛けようが掛けまいが容姿は大したものではないんだけど。
まあ今は眼鏡より脂肪か。
脂肪を脱いだら、誰!?っていう美人にならないかな。ミランダとかアンジーみたいに。人種すら違うけど。性別しか共通点ないけど。


仕事の予習復習を兼ねての早朝ヨガ。現在の時刻は6時40分。

朝の光を浴びて体内時計のスイッチを入れ、一日のスタート。
スタジオの窓際に立って朝日を浴びて深呼吸。綺麗な空気が鼻から入り体中を巡って汚れたものは息と一緒に口から遠くに吐き出すイメージ。嫌な記憶もマイナスなイメージも全部吐き出す。ふー、ふー、ふー。

私、もうコアダンスはしません。ヨガだけにしとく。

私。ジムの早朝利用を希望されるお客様のために今週からマシントレーニングエリアだけ6時オープンということをすっかり忘れてました……。涙。

いや、エクササイズやってただけだし!何にも恥ずべきところはないのよ。ここはフィットネスジム私はトレーニングをしていただけ。
そう、ジャージのデブスが変顔でタコ踊りしながらバカみたいに腰振ってるようにしか見えなくても、あれはアメリカで一世を風靡したお洒落エクササイズだったんです……!

とはいえ、氷室様に目撃されて大笑いされたのはショックだった。
イケメン様にあんな姿を見られるなんて……不覚。穴を掘って埋まりたい。
あの後、いたたまれなくなってスタジオから逃げ出しました。ええ。

さあ、嫌なことは口から吐き出そう。細くゆっくり吐く息に乗せて遠く遠く地の彼方へ……

「おはようございます」

「ゔ?!」


急に掛けられた声にびっくりして変な声が出た。
けっこう集中していたらしくスタジオのドアが開いたことに全然気づかなかった。


「お声かけしてすみません。姿が見えたものですからつい」


スタジオの入り口から話しかけてきたその人を見て驚いた。イケメン氷室様じゃないですか。
半袖にハーフパンツ姿で前髪が汗で濡れているのを見ると、向こうのマシンでトレーニングしてたらしい。
それはいいんだけど、その汗に濡れた美形がなぜかスタジオに入ってこっちに来た。


「お、おはようございます……」

「おはようございます。今日も早いですね。朝のレッスンも受け持っていらっしゃるんですか?」

「いや……午前中はクリニック勤務なので自主練してるとこです」

「そうですか。熱心ですね」

「いや、そうでもないですよ……あの、」

「ああ、失礼。先日から何度もお会いしているのに自己紹介をしていませんでしたね。氷室です。氷室冬也」

そう言って氷室さんは右手を差し出した。反射でこちらも右手を出して握手。
すみません、あなたのお名前どころか年齢も勤め先も知ってますとは言えない。


「鈴木です。よろしくお願いします」

「こちらこそ。フルネームを伺っても?」

「え?ああ、李紅です。すももに紅と書いて李紅。鈴木李紅といいます」

「李紅さん。可愛い名前ですね。あなたに合ってる」


ひょえー、可愛い名前って言われた!

ばふっと顔が赤くなったのが分かる。や、社交辞令なんでしょうけど『可愛い』という用語に免疫ないもんで。
しかもこの人こんなナンパな台詞言いそうにないから無駄にドキドキしてしまう。

作り物めいた美しいお顔立ちの氷室様に朝日が当たって、文字通り後光が射して見える。キラキラしてる……。
それに、うわあ目!
この前は分からなかったけど、明るくて近い所でみたら、この人、目が焦げ茶ではなく深い藍色!
虹彩が青みがかってるよ!

眩しい……まさにイケメン神。氷室様、拝んでいいですか。


「先日はお見苦しいところを見せてしまい、失礼しました」

お見苦しい?
氷室様が何を言い出したのか一瞬分からなかったけど、すぐ思い出した。あれか。吉瀬ユイカ。


「いえ、こちらこそ大変大変お見苦しい姿をお見せしました…ごめんなさい」


美しい女優との痴話喧嘩よりデブスのタコ踊りのほうが見苦しいに決まってるだろう。お目汚しっていう言葉がぴったりだよ。穴があったら入りたい。
氷室様は少し首を傾げたあと、私が謝った理由に思い当たったらしく、小さく笑った。


「とんでもない。こちらこそ笑ったりして失礼しました。誤解しないでくださいね。あれは馬鹿にして笑ったのではありません。真剣な様子が可愛くてつい」

「可愛い?」

「そう。可愛い」


変なことを言い出したぞこのイケメン。アレのどこに可愛い要素があるんだ。皆無だろう。
しかし氷室様はそっと口の端を上げてふっと笑った。大きい表情の動きじゃないけど、ほんわり、というような微かな微笑。
うわ、この人こんな表情もするんだ。
この前、野村常務と会った時は無表情で取っつきにくい感じだったから、こんなギャップ三十路女もドキっとしちゃうよ!

……あれ。それにしても握手長いな。あれ?こんなに手を握るもんだっけ?


「鈴木さん、朝食は?」


急にそんなことを言われて首を傾げた。


「え?いや、まだですが」

「よかった。私もまだなんです。よかったら付き合ってくれませんか」

「へ?」

「シャワーを浴びてきます。ジムの入り口で待ち合わせしましょう」

「は?え?ええ!?」


有無を言わさず「じゃあ後で」と爽やかに右手を上げてスタジオを出ていく氷室様。

えっと……。
あまりの急な話についていけない。もしかして今のごはんに誘われた?
朝食を一緒に食べましょうって意味、よね?
あんなイケメンに食事に誘われるとか信じがたくて、自分が日本語理解してるのか、はたまた幻聴なのか不安になった。
脳内で会話を巻き戻しして、どうやら本当に誘われたらしいと結論が出て動揺する。

どうしよう………。

と、とにかく氷室様をお待たせしてはいかんっ。
たっぷり1分は思考停止した後でダッシュでシャワー室に駆け込んだ。

禊。禊をせねば……!

なんの気まぐれか知らないけどあんなイケメンと朝のコーヒー飲めるなんて幸運な事件は二度とないはず。
できるなら二時間くらいかけて身を洗い清めて、メイクをプロにお任せしたいくらいだけど、お待たせする訳にはいかないのでいつもより雑なくらいの洗身とメイクに終わった。
まあ、お見合いでもないし。そんなに気合入れなくてもいいだろ私。

急いで待ち合わせ場所に向かうと氷室様はすでに待っていらっしゃった。
スーツ姿にボタンを二つばかり開けたノーネクタイのワイシャツ姿。長めの前髪は後ろにさっと流してある。
&眼鏡……!
銀縁の眼鏡似合ってる!素敵!!

あ!この人。
どっかで見たことあると思ったら、この前カフェで観察した(ガン見したともいう)妄想ネタの眼鏡イケメン様じゃないですか!
さっきまで眼鏡かけてないから分かんなかったよ。うわあうわあ!

氷室様はちょうど海外にお電話中だったらしく、流暢な英語で会話なされていたけど、私に気づくと二言三言話して電話を切った。いかにもできるビジネスパーソンって感じの仕草がかっこいい。


「電話、切ってしまってよかったんですか?お仕事だったんじゃ」

「いえ、大した用ではないですから気にしないでください。それより和食と洋食どちらがいいですか?」


さりげなく私の背に軽く手を添えて出口にエスコートする様が、それだけでスマートすぎる。
通りすがりに目をやると、ジムの受付カウンターに立ってる女の子が目を剥いていた。うん、びっくりするよね。私が一番驚いてるよ。

シャワー浴びて少し冷静になった頭で考えれば、人気女優との関係の口留めかな、と見当がついてちょっとテンションが下がったけどドキドキしながら氷室様に付いていったのだった。
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