派遣OLの愛沢蜜希さんが、ヤサぐれ社員の久保田昇に神様を見るお話
あいつは神様かもしれない。
それはさっそく次の日の事。
久保田のセクハラに涙ぐんだ、あの女の子が、上に訴えたらしい。
その現状を小耳に挟んで、朝一、意気揚々と女性社員が乱入してきた。
それが、久保田が〝底辺の女〟と揶揄する教育課の……林檎さんである。
「あ、蜜希ちゃん」
事務課から書類を受け取って、ちょうど4階に戻ってきた所、どう見ても年下にしか見えない彼女から、いきなりそう呼ばれた。
彼女は一連のセクハラをあの女の子から聞いたらしく、
「蜜希ちゃんもヤラれてんだって?あたしが久保田に鉄拳ブチ込んでやるっ!」勢いよく腕まくりした。
社員に仕事以外の厄介面倒を掛ける派遣は、減点1だ。評価に響く。
林檎さんは、今や飛ぶ鳥落とす勢い。営業部のキレ者、あの上杉部長の彼女だというから、本気出したら久保田なんかマジで追い詰められてしまう。
そこまでするほど迷惑かと言われたら……。
「私なら大丈夫です。あれぐらい平気です。おじいちゃん達の露骨なセクハラに比べたら可愛いもんですよ」
本気でオッパイを揉んでやろうという気概には乏しい。自分に構って欲しくて暴れているとしか思えない。まるで幼稚園児だった。やれやれ。いい大人が。
「蜜希ちゃんって、おしとやかに見えて強いんだねっ」
彼女は心底感心してくれた。妄想で乗り切っています……言おうかどうしようか迷って、結局言わなかった。バカバカしいと笑われそうで。
「役員の事でもいいよ?何か困ったらいつでも来て。社員も契約社員も同じだからね」と、両手を固く握られる。
僭越ながら……契約社員と派遣社員は似ているようで違うのです。
そこから、シンデレラの新人、宇佐美くんの仕事ぶりに話題は移った。
「ゆとりウサギ、迷惑かけてない?」
以前一緒に仕事をした事があると、彼女は思い出を語る。
「私の方が色々と教わっています。刺激も受けます。とても楽しいですよ」
嘘でも無い代わりに十分でも無い。「そう?もうさ、ガンガンやって」
別れ際、いつまでも手を振る彼女に、私も愛想よく応えながら見送った。嘘みたいな話だが、久保田のお陰で、私には林檎さんという力強い味方が現れたな。
「蜜希ちゃん、なんて」
男からも呼ばれた事ない。だから、少々照れ臭い。
林檎さんのあの愛嬌、そしてお手軽さが、社員にとって相談しやすい先輩と言う今の立場に繋がっているのかもしれない。その上、あの上杉部長を籠絡した女だ。向かう所敵なし。所詮、女は男の地位次第なのか。それを思えば久保田がヤサぐれるのも分かる気がする。旨みの無い男に、女は誰もスリ寄らない。
そこから午前いっぱい、久保田が押し付ける雑用を、私は片っ端から片付けた。
言われるがままにファイルを探し、「字ばっかり並べんな。もっと色気のある一覧を出せ」と微妙なダメ出しを喰らいながら、1つ叩き台を上げる。
それに、久保田の印が入った。
「コピー10部。俺のデスクに」
「はい。ありがとうございます」と、作り上げた側が、お礼を言う。
手柄を横取りされたみたいな理不尽を感じる人も居るだろう。
愛沢さん、可哀想……それは小さな呟きではあったけれど、私の耳に届いた。
〝万事順調〟
派遣会社の報告アンケートに返信した後、20分でお昼を済ませ、私はいつもの化粧室に向かった。個室で長く寛いでいると、いつものようにお馴染のメンバーがやってくる。これまたいつものように耳を澄ましたら。
「久保田が愛人にしょうもない事言い付けるから、こっちの作業が進まない」
「愛沢さんが能率悪いの?」
「てゆうか、久保田のいう仕事ってさ、優先順位が間違ってんだよね」
「愛沢、乙」
「乙っていうか、久保田にしがみついて必死過ぎない?見てて哀れだよ」
「愛沢さん、借金でもあるのかな」
「それなら久保田どころじゃないでしょ。やっぱAVに出なきゃ」
「またそこからですか」
きゃははは!
……言いたければ言え。
見ている人は見ている。
林檎さんのように。可哀想と同情してくれた誰かのように。
いつかこの我慢が報われて、久保田相手にあの子意外と粘るじゃん、使えるじゃん、となって契約延長。まさかの社員に昇格。
そうなると……今や久保田昇は、私にとって無くてはならない、私の為に居てくれる有り難い社員という事になる。扱いが変わるにも程があるな。
個室を出て、いつものように髪を整え、リップを直した。
「久保田昇。ポンコツ。でも見方を変えれば、あいつは神様かもしれない」
思わず手を合わせた。だが、神様に死んでもらっては困るな。
彼が大人しくなってしまったら、私の存在価値が失われる。久保田の居場所と同様、私の居場所もそこにあるのだ。ヤツは、生かさず殺さず。
「そういう訳で、久保田が、いつまでも適当に悪魔で居てくれますように」
私は水音に気を取られて、気付かなかった。
「なるほど。そういう事か」
声に驚いて振り向くと、化粧室の入り口に、その久保田が立っている。両手をズボンのポケットに入れて、壁にもたれて格好つけて……ニノ。松潤。桜井翔。
どれも無理だった。
「ここ、女性トイレですよ」
どこの世界に、女子トイレに侵入するアイドルがいるのか。久保田の事だ、女の声に誘われて、何か狙って邪な事でも考えてやって来たんだろうけど。
「大胆な事してると、本気で捕まりますよ。そろそろ仕事に戻らなきゃ」
「ごまかすな」
出口に立ち塞がって、久保田が行く手を阻んだ。すっかり聞かれた、か。
私は観念して……というか、開き直って久保田に向き合う。
「逃げも隠れもしません。さっきの、あれが本音です」
「そう言う事なら、こっちも利用させてもらうぞ」
脅迫されて困る事など、私には無かった。誰に知られても、何の痛痒も感じない。それぐらい開き直らないと久保田とはやってけないよねーと励まされる事はあるかもしれない。それもいいな。
久保田は、何かを狙うように、私の周りをぐるりと回った。
「愛沢ってさ、家で淋しくテレビばっかり見てんだろ」
正解。
久保田は、私の髪の毛を手に取った。そこから指先でくるくると弄て遊ぶ。
くんくんと匂いを嗅ぐ。私じゃなかったら絶対、逃げだしている。
「今日から、おまえは派遣と言う名の俺様の奴隷だ」
「そんなの、今までと大して変わらないですけど」
「今まで以上に、全身全霊で従えって事だ」
その目を真っすぐ捉えた。見た所、久保田は身長175センチぐらい。
急に黙り込む私を不気味に感じたのか、「何だ?」と久保田は少々体を引いた。
私は溜息をつく。
「もうとにかく残念で仕方ないんですよね」
久保田はその意味を分かりかねて、眉間にしわを寄せる。
「目の前の男が、どうして斎藤工じゃないのかしら」
「死ねばいいんだよ。おまえみたいな女は」
誰かが通り掛かるタイミングを避けて、お互い化粧室を飛び出した。エレベーター通路には賑やかな3人組が居て、何だか面倒だな……そこで、久保田は私の手を取ると、その先の階段に入る。いつになく強引で驚いた。
最初、久保田は私の指先に触れた。それをパッと離して、手首を掴んだ事が腑に落ちない。どこを握ろうと大した違いは無い。そこに何を躊躇する要素があるのか。まるで生々しい感情に触れたみたいで、勝手に動揺してしまう。
3階から4階に続く踊り場で、久保田の態度は一変した。
私を壁に押し付けて、
「とりあえず……さっそく、ちょっと遊ばせろよ」
そう言う事か。私は半ば覚悟して、目を閉じた。
「襲うぞ」と、斎藤工で。
「行くぞ」と、星野源で。
「こっちを向け」と、これは綾野剛に活躍してもらって……そこから3分。
色々言いながらも、久保田がなかなか向かって来ない。かと思ったら急に勢いづいてきて、私の顎をグイと掴んだ。恐らく、そこから唇を狙って……ところが、寸での所でまた躊躇。急に罪悪感でも湧いて来たのか。
目を開けた時、ふと何かが違う事に気が付いた。いつもの毒々しい色合いが、落ち着いたダークな色合いに変わっている。
「……ネクタイ、変えたんですか」
「え?あ」
まるでチャンスを待っていたみたいに、久保田はぱっと離れて、
「おまえに言われたからじゃねぇよ。金が余ったんだよ」
その手でネクタイを緩めたいのか、隠したいのか、右手が落ち着かないでいる。
「どうなんだよ」と藪から棒に訊いて来た。「何がですか?」
「これ」と、いつかみたいにネクタイを裏返して見せた。いつかと違って、どこか自信なさそうで……私は笑いが込み上げるのを必死で我慢する。
「いいんじゃないですか。仕事が出来そうな感じで」
どうにも笑いが込み上げてきて、イジってやろうと企む余裕が無い。
4階フロアに戻った途端、さっきの自信無さげな態度はどこへやら、久保田は今日1番のドヤ顔で3課に入って行く。本当に私より5つも年上なの?
まるで褒められて舞い上がる子供だった。爆発的に笑いが込み上げるのを必死で我慢する。派遣先でこんなに面白い事、どれぐらいぶりだろう。
……神様。元から、そう悪魔な奴でもないかもしれません。
派遣の言う事なんて、女の言う事なんて、久保田は頭からバカにして聞き流していると思っていた。それが意外と素直に受け止めている。
もうあの趣味の悪いネクタイを見て陰で笑う事は無くなる。
それも何だか淋しいな、と今日1日、そんな期待外れを躍らせた。
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