心理戦の100万円アプリ
1st Stage
 いつの間にか、ドアを開けるのが怖くなっていた。幾つものドアには鍵が掛かっていて開ける度にその人の本音が見えてくる。
 人の心には鍵の付いたドアがある。
 僕は知っている。それを開けてしまうとどうなってしまうのか。透明な手は自分の意思を無視して目の前のドアを開けてしまう。

 そこには真っ白な美しい球体があった。そのあまりに白い純粋な球体は、見るだけで今までの世界観を圧倒し、自分を別人に変えてしまうのではないかと恐怖する程だ。

 近づきたい。しかし、触れた瞬間自分の汚い色がついてしまうのではないかと手を伸ばす事を躊躇する。
 当たり前だ、人の心に触れるという事はそういう事なのだから。


 *


「お、雪が降ってきた」


 寒いのは嫌だけど、どうせ降るなら積もってしまえばいい。
 ケータイを出して時間を確認すると、温度を失ってきた珈琲を一口飲み再び窓外に目をやる。


 ピンク色のコートが目につき、その女性は笑顔でこちらに手を振ってくる。
 直ぐに喫茶店のドアが来客を知らせる鈴の音が鳴り、真っ直ぐこちらに向かい相席して来て肩の雪を払いどける。


「お疲れ様、久しぶりだね。髪ショートにしたんだ。新田さんは珈琲でいい?」
 

「遅れてごめんなさい、雪が突然降ってきてもう最悪。ケーキも食べたいなあ。貸し切り? 誰もいないし植物ばっかりで暗い喫茶店だね」


「近いし、お気に入りなんだ。珈琲は美味いよ」

「大丈夫、私こういう雰囲気すっごく好きなの」


 店員に注文を告げると、彼女はピンクのコートを椅子にか、やけに肩が出た下がりすぎた黒いセーターを摘んで肩まで上げる。


  前の仕事場のバイト仲間で、性格が悪いとの噂で1人浮いてた子。
 30代手前には見えない今日は濃いメイクと服だな。


「渡辺さん居酒屋の仕事向いてて、凄いみんなからも支持されていたのに、なんで仕事急に辞めたんですか? もう店長になる話しが来てたって噂だったのに」


「今の店長が苦手なんだよ、自分は仕事もできないのに無茶苦茶な指示ばかり、そんなやつの下につきたくないんだ」


 ふーんと、彼女は素っ気ない返事をすると、机に珈琲とケーキが置かれ、甲高い声でお礼をする。


「店員さんありがとう。うわーケーキ美味そう! ね、見て。窓の外! あのワンちゃん超可愛いー」


 辞めた事を引き止めにきた雰囲気ではないな、無駄に愛想を振りまいての自己中は変わらないし。
 苦手なタイプなんだけど、仕事以外で関わるのは疲れる。


「うん、可愛いね」


 感情を出さない、気怠そうな表情の僕を見て彼女は話しを戻してくる。


「私もあの店長は嫌い、知ってます? 私だけに教えてくれたんだけど奥さん不倫で出て行ったみたいですよ。不倫とか浮気はあり得ないですよ、私はそんなのした事ないのに。エリもトモも浮気した事あるって女子会で言ってましたよ、最低。2人共二重瞼の整形してるって噂だし、性格も最悪。あんなのに彼氏いるとか意味わかんない」


 話しが噛み合わないな、仕事辞めてまで陰口なんか聞きたくもないのに。


「で、今日はなに?」


「今時社内恋愛禁止って古くないです? でもやめたなら関係ないですよね」


 そいう事か。仕事仲間の評判を落としてでも自分さえ良ければよしか。
 下心を込めた彼女の笑顔に初めて目を真面目に合わせて、少し唇をニコリと上げてやる。


「君はいつも素直で可愛いよな」


「そんな事絶対ないですよー! そんなの渡辺さんくらいです。なんだかドキドキしてきた、私汗かいてない?」


 いかにも演技臭い、僕に好意があるっていうのも疑わしい。
 試すか……?


「それよりエリちゃんとはよく話してたんだけど、君相当やらかしてるみたいだね。全部知ってるよ」


「えー? 何をですか? 何もしてませんよ」


「知らないふりはやめたほうがいいよ、悪口系は全部聞いてるんだ。何もないならさっきのエリちゃんに話しても問題ないね? そんな性格だから孤立してるんじゃない?」


 僕が好意がないのを確認したのだろう、媚びて来ていたのが、顔の表情が一変して顎を上げて見下して来る。
 どうやら僕を「敵」として認識したな、どうせこっちは辞めた人間だし。
 本音を出してきっと潰しに来る筈だ。


「あーこれだからレベルの低いやつと話すのは疲れる。ちょっと情報があるくらいでいつも群れて攻撃してくるし。エリに話を合わせて文句言ってただけでなんで私だけこんな事言われないといけないの。何様? 渡辺さん性格キモいよ」


 プライドが高く、孤立という言葉が我慢できなかったか。ここまで態度を変えるのも珍しいな、あからさまな敵意だ。できるだけ傷つくワードを選択してきている。


 本音を確認したかっただけだが、もう反撃するしかない。


「あ、ごめん。さっきの情報は、トモちゃんのエリちゃんに対する情報だった。偶然一緒だったんだね」
 

 誤解情報に踊らされた事で更に怒りが昇って行くのが見える。恋愛感情で近づいて来た事なんかまるで忘れて、僕を潰す事だけを考えている。


「そうやって人の情報を簡単に喋って悪用するのとか最悪。頭わるー、エリちゃんがマジ可哀想。私を攻撃するために人使うとかあり得ないし。1人じゃなんにもできない人間の典型的だね。「みんなが言ってたから」ばっかり」
 

 僕の落ち度を探したんだろう、それなら今真っ先に言ってきた誤解情報を悪用した事を攻めて来るのも解る。
 残念だけどそれは「罠」。


「あ、ごめんごめん。これ作り話しだ。ドッキリのつもりが、何故か当てはまってて話しが進むからネタ晴らしするの遅れた。全部僕に向けた言葉がそのまま返ってきてるの解ってる? それより話を戻そう、君は素直で可愛いよね。仕事も関係なくなったし恋愛でもする?」


 彼女は立ち上がると顔を近づけ、精一杯の憎悪を表情に出した。


「最低!」


 ピンクのコートを鷲掴みにして、そのまま早足で外に出て行った。


 やっぱりね……。本音なんか引き出しても何もいい事もない、本音に触れるといつも必ず攻撃される。
 この手のやり取りは得意なつもりだったけど、何も役に立たない。


 タバコに火をつけて、再び窓の外の雪が落ちてくるのを見つめた。


「吸ったら帰るか」
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