愛し君に花の名を捧ぐ
序 章 再会
 静まりかえった蒼世殿《そうせいでん》で、ささやかな衣擦れが移動する。一歩足を前に出すごとにリーリュアの胸がたてる小さな鼓動さえ響きそうだ。

 早く確認したい想いを抑え、作法に則り視線を床に落としたまま進む。あと数歩を残して階《きざはし》の手前で止まったリーリュアは、広がった裾の中でおもむろに膝を折り“そのとき”を待つ。

 主《ぬし》の身じろぎで玉座が僅かな軋みを立て、再び静寂が辺りを包んだ。

「遠路よくおいでになった、西国の王女。どうか顔を上げられよ」

 ふた呼吸の後、麦の穂色の頭に落とされた声は彼女が記憶していたものよりも少し低く、遙かに威厳に満ちていた。

 リーリュアはゆっくりと顔を上げ、けぶる睫毛に縁取られた新緑の野を思わせる瞳を正面に向ける。新雪のように白い顔《かんばせ》の頬を薄紅色に上気させ、桃の花弁の如き唇が柔らかな弧を描いた。

「お久しぶりです、苑輝《えんき》様。お目にかかれるこの日を心待ちにしておりました」

 やや西方の訛が残るが、たしかな葆の言葉で挨拶をした彼女の視線の先には、二頭の黄金の龍が絡みつく漆黒の玉座に腰掛ける美丈夫。艶やかな黒髪は頭頂でまとめ冠がつけられ、同じ色の双眸は真っ直ぐにリーリュアを捉えている。

 主《あるじ》に対してのあまりに気易げな物言いに、控えていた側近たちはにわかに不穏な空気を漂わせるが、苑輝はそれを僅かに片手を上げただけで制した。

「あれから十年以上経つか? 姫はずいぶんと大きくなられた」

 幼子の成長をみるかのように目を細められ、リーリュアははにかむ。葆《ほう》の皇帝、琥苑輝《こ えんき》と逢ったのは彼女がまだ十歳にもなっていなかったころだ。

「わたくしももうすぐ二十歳になります。いつまでもあのときのような子どもではありません。ですが、陛下はお変わりありませんのね」

 一方の苑輝はすでに三十五を過ぎている。だが皇帝にのみ許された五爪の龍が刺繍される紫紺の礼服に包まれた体躯は、かつて一国の軍を率いた将としての名残りが窺え若々しい。

 素直に感じたままを口にしたリーリュアの言葉に、苑輝はごく僅かに口元を歪めた。

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