ただひとりの運命の人は、私の兄でした

兄と妹になった日

私の両親は、私が幼い時に離婚した。
何があったのかは良く知らないけれど、母子家庭になってからもお金には困ることはなかったし、離婚したと言うのに母はいつも楽しそうだった。
母は何と言うか、自分が一番大好きな人だった。
この世で一番好きなのは、お友達とのランチやヨガ教室、きらきらしたネイルやおしゃれ。良くも悪くも教育ママからは程遠い。
「あおいちゃん、それでね、聞いて聞いて」
「あおいちゃん、ママね、こっちの服がいいかなあって」
「あおいちゃん、これ新作のネイルなの!良い感じでしょう?」

母はいつも自分の話題で楽しそうだった。多分、私にあまり関心なんて無かったと思う。
私が学校で育てたミニトマトの話をぽつりと話しても、あら良かったわね、それでママはね、といつの間にか話題はすり替わってしまう。

母がそうやって自分の話ばかりするものだから、私は自然と聞き役に回るようになった。
そして気がつけば口数の少ない子供になっていった。
自分の話などつまらないだろうと自己評価の妙に低い子供だったかもしれない。
ただ、相槌を打つのだけはうまくなっていった気がする。決して母の言うことには反論しなかった。

うん、そうだね。
そう思う。
それがいいんじゃない。

こんな言葉を絶妙なタイミングで打つことが私の「役割」だった。

振り返ってみれば、母と二人で話している時の内容なんて、ちっとも覚えていない。
いつも私は頭の中で、違うことを考えていた。
ただ、この話が早く終わらないかな、ということをぼんやりと思っていたのだけは記憶に残っている。

そんな影響からか、私はあまり社交的な性格には育たなかった。
一番身近な家族とうまくコミュニケーションを取れなかったせいだろうか。人に話し掛けるきっかけがうまく掴めなかったし、何を話したら良いかも分からなかった。
だからどちらかと言うと学校の教室では孤立しがちだった。
休み時間にはぽつんと一人で本を読んだり、学校で飼っている動物に餌をあげたりして時間を過ごした。

教室の女の子たちが、グループを作っておしゃべりをしている。自分は、何となくそれには入ってはいけない気がした。
私自身、彼女たちにそれを望まれてもいないことも、子供心に痛いほど分かっていた。言ってしまえば、人の輪にうまく馴染めない子供だった。

そんな私に気が付いた学校の先生たちは、何とかして私をみんなに打ち解けさせようとした。
一緒に遊ぶレクリエーションをしたり、みんな仲良く、なんていう議題の学級会を催してみたり。取り上げられる人物はもちろん私。

もうやめてほしかった。
話し合われている時間が自分の為だと思うと、情けなくて、恥ずかしくて涙が出そうだった。

私は面白い話も出来ないし、みんなと仲良くできるスキルなんて持ち合わせていない。
でもみんなはノリが良くて、おしゃべりが上手で、面白い子が好き。
私は期待されても、応えられない。

「あおいちゃんも、ママみたいだったら良かったのにねぇ」

学校の担任に私の事をそれとなく相談された母は、よくこんな風に言ったものだ。
確かに母はコミュニケーションスキルが高くて、毎日楽しそうに過ごしている。
でも、私が母みたいになりたいかと言ったら、それは違うと断言できた。

“俺のかーちゃん、ちょーこえーんだぜ”
たまにクラスの男の子が吹聴しているのを耳をそばだてて聞いていた。
なんでも、怒るとげんこつが飛んでくるとか、暇な時は一日中ごろごろして過ごしてるとか。
怒鳴る時はどすのきいた声で、命が縮みそうだとか。
電話の時だけものすごく声が高くなって丁寧な話し方になるから、普段とのギャップが凄いとか。

私は、そんなお母さんもいるんだ、と心底驚いたものだ。そして、そんなざっくばらんなお母さんが少し羨ましかったのも事実。
何となく、私の母とは根本的に何かが違う気がした。
私は怒られたことがない。
私がいい子だったせいもあるんだろうけれど、基本的には母が私に関心が無かったのではないだろうか。

いくつになっても、少女みたいな母だった。


私が7歳になる頃、母がとても嬉しそうに私に告げた。
「あおいにパパとお兄ちゃんができるのよ」
私は言葉の意味が分からなくて、何度も瞬きをして首を傾げた。
「ふふっ、嬉しいでしょう!?これでもう寂しくないからね!」
私が母との生活を寂しいと言ったことなどあっただろうか。
大体、父と兄が出来るってどういうことなんだろう。
うきうきする母によって何やら良く分からない内に着せられた余所行きの服が、すごく動きづらかったのは今でも記憶に残っている。
「さあ、可愛いお洋服を着て行きましょうね!パパとお兄さんに会うんだから!」
美しい母の手で頭を撫でられながらそう告げられても、幼い私には良く意味が分からなかった。ただ、家族が増えるらしいということがぼんやりと理解できただけだ。そんな風に家族とはどこからか突然降って沸いてくるものなのか、と疑問を感じながら母に手を引かれた。

いかにもそれらしいレストランの前で待っていたのは、父になる人と、兄となる人―――光希だった。彼はその時、中学三年生だった。
「ほら、ご挨拶しなさい」
「……こんにちは。あおいです」
小さな声で、それでもできるだけはっきりと口にして、私はぺこりと頭を下げた。
それが私に望まれている“役割”だということが分かっていたから。
「やあこれはこれは、かわいいお姫様だな!」
大きな手が私の頭に突然触れてきて、思わず身体がびくりと硬直した。
父親がいない生活を送っていておとなの男の人に耐性がない私は、その大きな手に喜ぶどころが怯えた。
「そんなに緊張しなくていいんだよ」
身体を固くした私に向かって、父は苦笑しながらそう言ったものだ。
ひきつった表情を浮かべて、私は背中にどっと冷や汗をかいた気がした。
こんなひとと、家族になれるのだろうか。
得体の知れない恐怖がひたりひたりとにじり寄ってくる気がした。

その時だった。

「こんにちは、僕の名前は光希だよ」
突如掛けられた声の方を向けば、はにかむような笑顔を向けられた。
私は言葉を失って彼の顔を見つめた。
「えへへ、……なんだか変な感じだよね。今日から君のお兄さんになるんだって」
頬をかりかりとかきながら、彼は恥ずかしそうにそう言った。

どくん。

心臓が撥ねあがった気がした。
冷えていた身体が、彼のおひさまみたいな笑顔で次第に温められていった。

「これから宜しくね」

肩をすくめて笑う彼に、なんとか頷き返すだけで精一杯だった。
こんなに綺麗な人がこの世に存在するなんて。そして、家族になって一緒に暮らすなんて。
私の頭の中は、半ばパニックを引き起こしていた。

思えばこの時から、私は、彼を。


レストランで食事をしている間も、いつも通り母がぺらぺらと一人で楽しそうに話していた。
父となる人はにこやかにうんうんと頷いていた。
私はと言えば、兄となる人が気になってしまって、ちらちらと視線を送っては、目が合うと慌ててそらすという始末。まともに話をすることなんてとても出来なかった。

ああ、こういう時に可愛らしくお話しできれば。同級生の友達みたいに、にこにこ笑いながら会話を弾ませられればいいのに。
自分のコミュニケーションスキルの低さを心底恨んだものだ。
悔しくて膝の上でぎゅうっと拳を握った。
生まれて初めて私が他人に興味を持てたというのに、私は積極的に自分から何かをすることもできない。それがもどかしくて、情けなかった。

「ねぇねぇ、あなたたち、ちょっと外のお庭で散歩してきなさいよ」

食事も終盤になりかけたころ、母がそんな提案をして、私たち二人は無理やり席を立たされた。きっと、兄妹となる二人の相性でも見たかったのだろう。
父もそれに賛成して、私たち二人はよく面識もないままにガーデンテラスを散歩させられる羽目になった。

ガーデンテラスには、色とりどりの花が咲き誇り、人々の目を楽しませていた。
「手、つなごう」
耳に響く柔らかい声。慈しむ様な優しい笑顔。すっと差し出された美しい手のひら。
これを拒むことが出来る人間がこの世に存在するだろうか。
私はしばらく黙っていたけれど、おずおずとその手を取ってこくりと頷いた。
「あおいちゃんって呼べばいいのかな?」
「……あおいで、いい」
「じゃあ、僕のことも光希って呼んでくれればいいよ。お兄ちゃんなんて呼ばれると、何だか照れるよね……」
そう言って彼は頬を赤く染めた。

ああ、何だかとても愛おしい。温かいスープでも飲んだかのようにじんわりと胸が温められていった。
その時の私の胸に芽生えた感情は、何だったのだろう。

「み、つき……」
「うん、なあに、あおい」
「……みつき」
「あおい」
慣れない呼び方で互いに呼び合い、胸がくすぐられる思いだった。
私は張りつめていた緊張がほぐれて、やっと少しだけ笑う事が出来た。
「あおい、やっと笑ってくれた……可愛いねぇ」
そんな風に褒められて私は一瞬で耳まで熱くなった。
誰かから笑顔を褒められた事なんてそれまでなかったのだ。
恥ずかしくて堪らなかったけれど、おそるおそる彼の顔に視線をやれば、蕩ける様な笑顔を浮かべていてくれた。
はちみつ色の瞳はとても甘くて優しそうな光をたたえていた。
心を根こそぎ奪われてしまうような、そんな美しさだった。
あの時の光希の瞳を思い出すと、今でも胸が切なくなって、泣きたくなる。
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