ここにはいられない



「━━━━━はあ、タイムリミット」

湿った朝日が千隼の黒い髪を撫でる様を、泣きたい気持ちで見ていた。
腫れ上がった唇と、膨れ上がったもどかしさ。
全部抱えて仕事に向かわなければならない。

「仕事、休む」

離れようとする私を引き寄せてキスを再開する千隼を、心を引きちぎる思いで押しやる。

「乳児訪問健診入ってる。午前中に」

全身の力や意欲すべてが抜け出たように千隼は崩れ落ちた。
私だって離れたくない。
だけどすべてを捨てられるわけじゃない。

「ごめん」

「謝らなくていい」

しっかりと身体を起こし、揺らがない瞳で千隼は言った。
その声に反応して俯いていた顔が自然と上がる。

「何も悪いことしてないのに謝らなくていい」


千隼といるといつも顔を上げていられる。
千隼がそうさせてくれるから。
言葉で、態度で、想い向けてくれることで。

「ありがとう」

想いのすべてが伝わらないことを承知で、私はそれだけを口にした。



失意の底にいた昔の私に「あなたの本当の相手は千隼だよ」と教えたなら、きっと絶望するだろう。
私は全身全霊で大ちゃんが好きだったから。
大ちゃん以外の人との恋なんてただの妥協だと思っていたから。

確かに私の恋は大ちゃんの次に千隼という順番でやってきた。
だけどそれは妥協とは違う。
今なら千隼と出会うために、大ちゃんへの失恋があったんだと、心から思えるから。
私の人生は、膀胱炎やトイレブラシまで含めて、全部千隼と出会うためだったって思えるから。
他の誰にもそんなこと思わなかった。

そんな風に思わせてくれる千隼が、妥協であるはずがない。







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