徹生の部屋
通勤でいつも使う路線の逆方面に乗り、数回乗り換えた後に初めて降りた駅では、風の中にほんのりと潮の香りがした。
スマホアプリの案内が確かならば、私の背丈よりずっと高い門扉の向こうに見える建物が目的の場所、桜王寺邸。

私は、日が落ちてなお、もわっとした熱気が絡みつく首筋の汗をハンカチで拭う。
首だけを巡らせて振り返れば、閑静な高級住宅街をレトロな形の街灯が等間隔で照らす。たったいま登ってきた坂道の先にある昏い海には、波間に浮かぶ船の小さな灯りが揺れていた。

額の汗を押さえ、戻した顔を上げる。

こういったお屋敷にもインターフォンってあるのだろうか。

門灯を頼りに左右を探すと、呆気なくそれはみつかった。

堂々たる墨書で『桜王寺』とある表札の横に埋め込められた、カメラ付きの最新式インターフォンがとってもちぐはぐに思えるくらい、重厚なレンガ造りの門柱の前に立つ。
久しぶりに着たサマースーツの襟を正し、深呼吸で息を調えてからボタンを押した。

スピーカーから微かな雑音がして応答があったことはわかったけれど、いっこうに向こう側からの音声は聞こえてこない。

「こんばんは。夜分に申し訳ありません。今夜お約束しております、桧山家具から参りました井口と申します」

意を決して無言のインターフォンに語りかけると、ブチッと通話を切られる音がした。

え? なに??

もう一度インターフォンのボタンを押そうと手を上げる前に、重たい音がして鉄柵製の門扉がひとりでに動き始める。

これは入って良いということ、だよね?

恐る恐る足を踏み込み、エントランスに向かって歩を進める。その背後で、再び耳障りな音を立てながら扉が閉まっていった。

乗用車が余裕で並走できるくらいに広い道のど真ん中を歩く。
両脇には綺麗に刈り込まれた植栽が並び、暗くてよく見えないけれどその奥にも緑が広がっているらしい。

敷地に入った途端、体感温度が数度下がった気がする。

車寄せには一台の乗用車が止まっていた。
車内に誰もいないことを確認しつつ、両開きの玄関ドアの前まで辿り着く。

さて、ここでもインターフォンだろうか。
扉の両脇を探したけれど見当たらず、代わりにライオンが輪っかを咥えているドアノッカーをみつけた。

ヨーロッパのお城ですか?

こんなもので中に音が届くのかと心配になるけれど、まさか「桜王寺さーん!」と叫ぶわけにもいかず、躊躇いつつもコンコンと叩いてみる。

ほどなくして、扉はゆっくりと開かれた。


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