臆病者で何が悪い!
epilogue

「おまえ、本当に辞めるのかよっ!」

耳元で、声が大きい。脳に響いて、眉間にしわを寄せる。
7月中旬、梅雨もそろそろあけようとしていた初夏、桐島が大声を上げた。

「何度も聞かないでよ。本当だよ。7月末で辞めます」

桐島が職場の廊下だということも忘れて喚くから、表情で「静かにしろ」と訴えた。

「これが驚かずにいられるかよっ。なんで、突然辞めるんだよ。何かあったのか?」

桐島なりに声を抑えているらしく、その代わりに私に近付いて来た。

「別に突然じゃない。7月末が一番職場に迷惑かけずに辞められる時期だなと思って。ほら、多くは無いけど人事異動あるじゃん」

「そいうことじゃなくて、なんで辞めるんだよ。転職でもする気か?」

「転職ね……。まあ、いずれはするつもりだよ。働くこと自体は嫌いじゃないしね」

とは言いつつ、働くのは帰国してからでいいだろう。

「ああっ。なんか奥歯に物を挟んだような言い方だな。おまえ、頑張ってたじゃん。何の仕事する気だよ。俺は、誰が辞めてもおまえだけは定年まで働くと思ってたから。かなり動揺してるんだ」

「……それ、どういう意味?」

じろりと睨みつけると、バツが悪そうに桐島が頭を掻く。

「まあ、おまえに今さら取り繕っても仕方ないか。ほら、おまえ結婚とかそういうの縁遠そうだし、キャリアウーマンとしてきっちり働いて行くっていうイメージで。エヘヘ……」

エヘヘじゃないよ。でも、桐島のその想像もあながち間違ってはいないか。私だって、そういう人生プランだったんだから。私は自分一人で生きていくつもりで公務員という職を選んだんだ。人生、何が起きるか分からないものだ。

私は、K省を辞めることを決めた。我ながら大きい決断をしたと思うけれど、大きい決断にしては結構すっぱり決めたと思う。ただの勢いなだけで、もしかしたら後悔するかもしれない。でも、不思議なことにこの決断をしたことで心が晴れやかになった。これまでの自分から生まれ変われたみたいで、なんだか嬉しいのだ。

『沙都と暮らしたい……』

スカイプで電話をしていた時に、ひとり言のように生田がぼそっと言った言葉。
それは、本当にひとりごとのようで、特に私に何かを訴えかけるようなものではなかった。だからかもしれない。それが生田の心の奥底の本当の思いのような気がして。
私への気遣いとか事情とかそういうものの奥にある、つい漏れ出てしまった生田の本音。その言葉がすっと私の胸に響いて。たったそれだけのことで、生田のところに行こうと決めたのだ。

やっぱり、少し冷静になるとすごい決断だよね……。

以前の私なら絶対にしない決断だ。でも、私が一番したいこと。それには違いない。だから、多分――いや、絶対に後悔しない。
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