ボクサーの拳には、いろんな姿がある。

 シャドーボクシングで風を切るときの拳、
 サンドバッグに、めり込むハンマーのような拳、
 ミットに打ち込まれる、派手な音を叩き出す拳、
 相手の腹に、めり込む鈍い音の拳、
 相手の顎を打ち抜く、KOを生む拳……など、さまざまだ。
 ボクシングは拳の道。
 ボクサーは闘う、拳道(けんどう)を極めるために。

野球と剣道でボクシングのパンチとフットワークを習得し、一週間の自主練習を経た麗は、再び大角道場の門を叩こうと、戸の前に立ちすくんでいた。
 
ワン・ツーとフットワークを身につけた麗には、自信はあったけれど何か照れくさいというか屈折した思いが残っていた。それは、追放宣言されたことに対してだった。それでも自分に駄目出しした会長には、堂々と成長した技術を披露したい気持ちもあって複雑な心境だった。

「おっ、朱賀やんけ」
 
戸を開けた狩谷の明るい大声を聞くなり、麗はとっさに俯いた。屈折が条件反射となって、思わず目を逸らした。
狩谷は、驚いたような嬉しい表情だった。

「負けず嫌いのお前のことや、宿題は済ましてきたようやな」
 
麗は下を見たままペコリと頷いた。彼の言葉は嬉しいが、頑張った気持ちを素直に出せなかった。すると続いて出てきた大角会長が、麗の二の腕を掴んで迎え入れた。

「お主がマスターしようとしまいと、自分一人で頑張ってもう一度来てくれたら、再入門ば許可するつもりやったと」

何で、そこまでする必要があったんですか? と、目で問いかけながら会長を見た。

「お主の負けん気の強さば逆利用して、試してみたったい。ただ足が速いだけの女かどうか……あれで来なくなるようなプライドやったら見込みはなかっち。ボクシングば本当の意味で一から学べるか、そこば見たかったったい」
 
麗は、目の前がパッと明るくなった。
 
正式に入門するまで、門前払いと追放宣言……紆余曲折を経る分、麗にしてみれば嬉しさとヤル気も倍増するような気分だった。
入会金と月謝は貯金で賄うことにしたが、麗は未成年ゆえに保護者の承諾が必要である。会長から渡された申込書の母親のサインと捺印は、麗が自分で勝手にすることにした。

道場は、やはり活気があった。
麗は、他の選手に混じって鏡の前でワン・ツーを繰り返した。パンチを打ちながら再入門を許された喜びを感じていた。道場は麗にとってもう一つの学校であり、会長や先生(トレーナー)、選手たちは家族。
ここは、そういった自分の居場所である。

ストレートは、腕がぐぅーんと伸び切ったところで全身の力が拳に伝わる感じが心地よかった。拳がまっすぐ突き抜ける爽快感がたまらない。
 
腕組みして横で見ている狩谷は、首をかしげた。とても不思議そうだった。
「ワン・ツーを覚えただけで、こんなに嬉しそうにシャドーする練習生を、いまだかつて俺は知らへんぞ。朱賀はひたすら続けることで、打つ技術を自分で掴んだんや。足のステップが鋭さを増しとるで」

右足を強く蹴ると、左足を早く踏み込めた……結果、ジャブが速くなったように感じた。いや、実感できるほどに速くなっていた。だから余計に嬉しいし、たくさんの練習ができるのだ。

「ストレートを打つ右腕は、ゴムのように伸びとるやんけ。ええパンチや」
 
誉められると、また嬉しかった。
ワン・ツーを打つときの、右足を強く蹴って相手に飛び込むスピード感もスリルを覚えた。

「長い手足から放たれる伸びのあるパンチ。こいつは、ストレート・パンチャーやな」
 
狩谷の言葉で、麗はアウトボクサーであることを再確認させられた。離れた距離からジャブやストレートを出すことによって、相手を自分の懐に入らせない。それには速い足が必要である。
 
負けん気が強い麗は、前に出るファイタータイプが似合っていると自分では思っていた。しかし、トレーナーである狩谷が見抜いたように、彼女はアウトボクサーが適していた。剣道でも、足を使うことによって自分の優位性を発揮できたことがそれを物語っている。
 
彼は、麗を感心したようにながめた。
「しかし、それにしてもワン・ツーだけで、かれこれ7Rや……心のスタミナもあるな」
元々マラソンは、肉体的・精神的の両方ともに持久力がないと強くなれない。それらは、他競技(ボクシング)にも生かせるはずだった。
 
もうボクサーは憧れではない、勝ち残るための手段である。
自分で得た技術は自分だけのものだから、野球や剣道で得た技術を磨いてさらに強くなるために、麗は道場に戻ってきたのだ。
 
ゴング。
 
麗はバスタオルを手にして休憩(インターバル)に汗を拭い取ると、狩谷がリングのコーナーにいる会長に歩み寄って、何やら話しかけているのが見えた。

「朱賀のやつ、どこで覚えてきたんですやろ?」
 
会長は、嬉しそうに語った。
「教えられて得た技術と、自分で得た技術の差は大きかと」
 
うんうんと、狩谷は納得したように頷いた。
「他人(トレーナー)に頼らんで自分で強くなろうとすることによって、プロ意識を芽生えさせるという会長の思惑通りですやん」

「それが試練・その参、の真意やっけんな。一度は突き放した練習生が、自分の思いに応えてまた戻ってきてくれる。まさに、指導者冥利に尽きるったい」
 
でも麗は狩谷が言うような、トレーナーの色に染まるだけのボクサーに納まる気はなかった。自分で自分の筆を使って、自分が選んだ色を自分が買ってきたキャンバスに描きたい。会長に突き放されても自分で技術を得てきたのは、そんな自立心の表れだった。

 2
休憩が終わるゴングを待つリング上では、実戦(スパーリング)が始まろうとしていた。
 
麗は自分の練習をやめて、物珍しい気持ちで実戦を見ようと思った。テレビで見たことはあったが、目の当たりにするのは初めてだ。開始ゴングが鳴る前は、やはり通常の練習とは違う緊張感があった。
リングの中は、嵐の前の静けさが漂っている。
 
ゴングとともに、プロ選手である桜井と練習生の島が、それぞれのコーナーから飛び出した。
桜井のセコンドには会長、島には狩谷がついた。
 
桜井は島を、ロープに追い込んで攻め立てた。身長は五センチほど桜井のほうが高いが、二人の力の差は歴然だった。島は必死にガードするだけで、圧力に押されて動けなかった。    
狩谷は、彼らの戦力を分析した。

「桜井はフライ級で島はミニマムという体重差に加えて、キャリアも違うからな。実力差は仕方あらへん」
 
会長は、リングで闘う二人を励ました。
「桜井はデビュー戦で勝ったら、新人王に出すけんなぁ。島は、そげんかこっちゃ(そういうことじゃ)、プロになれんぞ。ばってん、お主やったらできるけん頑張れ」
 
麗も、戦う二人両方を応援したかった。自分が強くなることが一番大事だけど、みんな家族(ジムメイト)だから。
しかし防戦一方の島に、麗はいてもたってもいられなくなった。麗は無期限処分を食らってからボクシング雑誌である程度の知識を身につけたつもりだった。だから、彼女なりの技術論が口を突いて出た。

「島さんはパンチ力が無かけん、打ち合いに付き合(お)うたらでけんよ。まずは横に動いて、ロープから脱出せんと」
 
この声に他の選手が気を取られることはなかった。皆、自分の練習で精一杯なのだ。
だが狩谷は、血相を変えて怒鳴りつけた。

「ボクサーは、自分の練習さえやっとりゃええんじゃ」
 
それから麗を指差し、少し小声でいった。
「せやったら、お前がやってみろっちゅうねん」
「えっ、私(うち)がね?」
 
麗は自分で自分を指差した。内心動揺した。傍からもそう見えるだろう。そんな麗を尻目に、狩谷はあらぬほうを見て渋々と語り出した。

「ド素人に限って、プロに指図しやがるんや」
 
道場での実戦を重ねないと強くなれないし、それを乗り越えないと試合ができない。恐怖と怪我のリスクを背負っているのが格闘家(ボクサー)だから……麗はやや迷ったが、その場で頭を下げた。

「はい、お願いします」
 
狩谷が麗を見て驚いた。
「お前、本気かぁ? こいつ、真に受けてんで」
 
狩谷は冗談のつもりで麗を叱責したのだろうが、彼女は本気だった。ボクササイズで道場に通うつもりは毛頭ない。
狩谷は、しばらく腕組みして考え込んでいた。その後で彼は頷くと、会長に歩み寄った。

「会長、素人の朱賀にも公平で、なおかつプロテストを受ける島にも練習になる、いい考えがあるんですが」
「お主に任せるよ」会長は言った。
 
終了ゴングが鳴ると、狩谷の指示が飛んだ。
「桜井退場、朱賀はスパーリングの用意や。試合用八オンスのグローブをつけろ」
 
会長は平静を装ってはいたものの、違和感を覚えたように麗を見た。道場は、あの小娘一人に振り回されとる……と、平静をよそおう顔が物語っていた。

麗は実戦を前に、顔にワセリンを塗ることを指示された。
ワセリンとは瞼や眉の上、鼻など、皮膚を切れにくくする格闘技用の軟膏クリームである。麗は鏡を見ながら、丁寧にワセリンを塗り始めた。白い肌に油ぎったゼリー状のものを、厚化粧のようにである。
大きな二重の目の周り、筋が通った小さめの鼻、気休めかもしれないが、尖った顎の先端にも塗った。顎に指をなぞらせたのは、グローブの衝撃を和らげて少しでもダメージを小さくするためである。

「目の周りに塗り過ぎると、ワセリンが目の中に入るために逆効果になるど」
厳しく指導した狩谷の、声のトーンが明るくなった。
「朱賀は道場の周りを走っていたときも生き生きした顔をしとったが、パンチを打っとるときのほうが、もっと輝いて見えるでぇ」
 
練習生に対して、お世辞などを言うはずもない狩谷の言葉だから麗は嬉しい気もしたが、それよりも緊張感のほうが彼女の心身を覆っていた。顔への打撃(パンチ)による恐怖を感じることで、関節や筋肉が硬直した。
思わず出た狩谷への作り笑いも、頬の皮膚が引きつっているのが自分でも分かった。さらに、精神的に高揚するとともに平常心を損なう状態に陥った。
 
麗はワセリンを塗り終わった自分の顔を見ると、普段はやや垂れ気味の目が、ぎらぎらと鋭くなっていた。