麗は練習を終えると、シャワー室のドアに《女の子、着替え中で~す 》の札を下げて、中に入った。
無数の熱い粒が、体のツボを刺激するように皮膚を弾く。水圧で体をマッサージしながら、汚れた肉体とともに心も洗い流して、交感神経を刺激して血圧を上げてくれる。勢いよく飛び散るシャワーの水しぶきが、彼女を奮い立たせた。スッキリするけれど、だからといってこれだけで疲れがとれるわけはない。
 
しかし練習後の熱いシャワーって、本当に気持ちがいい。このまま座り込みたかったが、そんな時間はない。
早く家に帰って、ゆっくりお風呂に入ろうと思った。
その時、道場から聞き慣れない若い男の人の声が聞こえてきた。

「こんにちは、会長。東京から取材に来ました長嶋です。ダイヤの原石は見つかりましたか」
「俺にとっては、全員がダイヤモンドなのだ」すぐさま会長が答えた。

これが会長の選手たちに対する正直な想いなのだろう。そんな気持ちが伝わっているから選手はきつい練習に耐えるし、しごいてもついてくるのだ。
麗は、思わず嬉しさが込み上げてくるのを感じた。

「青山聖って高三の女の子が、フライ級でデビューしますよ。しかもモデルであり、名門・柳川南高校の首席。柳川の《栄光ジム》で練習してます。ボクシングをやるために、東京の大手芸能プロダクションのスカウトも断ったそうです」

英子たちが噂してた、青山聖……ボクシングをやっていたとは知らなかった。これは聞き捨てならない、というより何か胸騒ぎがしてきた。
麗はすぐさまバスタオルで体を拭くと、セーラー服に着替えてシャワー室を出た。
麗は周囲を見回した。それらしき男はいなかったが、そのまま外へ出てみた。

「相変わらずの頑固親父だな。女子ボクシングなんて関係ないか。女の子は会長の許容範囲じゃないんだろう」
という、独り言の若い男と目が合った。
一七五センチぐらいで濃紺のスーツに瘠せ型の体を包んだ精悍な様は、元ボクサーと呼ぶにふさわしかった。
 
この男、そういえば《格闘伝説》で見たことがあった。確か長嶋という名前だった。ということは、あの長嶋と、この長嶋は同一人物なのだろう。
東京から取材に来たという彼は、雑誌関係の仕事をしていると思われる。だからといって何も話すことはないが、貴重な情報に麗は内心感謝した。
 
戸を開けたままの麗は、道場内に向き直ると丁寧に腰を曲げた。
「練習ありがとうございましたぁ」
 
麗は元気な声で挨拶すると、今度は長嶋を見て軽く会釈をした。このジムの女子ボクサーであることを自慢したい気分だった。

「こんな汚いジムにセーラー服? でも、ここの会長が、よく練習させたな……」
長嶋の呟きが後ろから聞こえた。麗はそのまま自転車を漕ぎ出した。行く先は、未知の場所だった。

西鉄・柳川駅前はバスの停留所やタクシー乗り場になっていて、背の低い雑居ビルや飲食店が周辺を覆っている。眩しい日の出から赤い日の入りまで見えるような、閑散とした田舎の駅風景といった趣があった。
染みがかった白い画用紙を、オレンジや茜色のクレヨンで塗りつぶしたような街は、時間とともに焦げ茶色や黒い影が目立ってくる。日中より二倍は大きな赤い太陽が、さらに山の中へ消えていくと、夕焼け色の空が暗くなって、残照とともに月や星が輝き出す。
 
二車線道路の両脇に白い灯が点された頃、駅付近の車道は都会の渋滞とは程遠いが切れ目のない車の流れがあった。脇を走る麗は自転車のライトをつけた。
大川の大角道場から二十分くらいペダルを踏んだ。目的地の見当は、だいたいついていた。

「あっ、あれだ」
 
市街地の白い雑居ビルの中に、栄光ジムはあった。
自転車から降りた麗は、三階を見上げた。
築五年ぐらいの比較的新しいビルだった。一階が駐車場で、二階が学習塾、四階が空室で、テナント募集の広告が掲げられていた。

「あそこに女子ボクシングの切り札が、おるったいね」
 
階段を上った麗は、ガラス張りのドアの手前から中を覗き見た。
十五坪ほどのジムは熱気に溢れていた。室内の蒸気が水滴となって、ドアにしたたっている。気合いの声や、サンドバッグを叩く音、怒声が聞こえるのは、大角道場と同じだった。
右奥のリング上では、かなり長身の女の子が、スパーリングをしていた。

「あの子が青山聖に違いない」

以前に見た、純也が持ち出した雑誌の切り抜き写真と目の前の女子ボクサーが合致した。
麗は、リングという舞台でのびのびと演技する女優を目の当たりにし、何か運命の人と出会ったようなときめきを感じてしまった。
 
ボクシングを演じる青山聖は、相手役を務める俳優を、いなし続けた。足を使いながら鋭いジャブで、十センチ以上も背の低い実戦相手を懐に入らせなかった。こうなると俳優は、主演女優を引き立てる脇役に過ぎない。

「モデルなのに、ヘッドギアも着けてない」
 
優に一七〇以上は背丈がありそうな聖は、ジャブの次に左右の連打でダメージを与えると、相手と同じ目線に下げてノーガードでニヤリと挑発した。素顔であるがゆえに、表情が顕著に見てとれる。やはり役者の違いは歴然としていた。

「ジャブ一本で相手ばコントロールして、動きが止まったところで強打する……やっぱり、ただ者じゃなか」
 
もう我慢できなかった。両脚が小刻みに震えてきた。麗は興味あることを目の当たりにすると、脚が反応するのだ。
ゴングが鳴って、スパーリングの実演を終えた聖が舞台(リング)を降りてきた。

麗はドアを開けてジム内に入っていき、ずかずかと聖に歩み寄った。
近くで見たら、やはり麗より五センチぐらい背が高かった。しかし、それ以上に大きく見えるのは後光が差しているからである。実戦でアドレナリンというホルモンが分泌されているから、よけいに存在感が増しているようだ。
麗は、自分の体を委縮させる外圧を撥ねのけるために大声で直訴した。

「私とワン・ツーだけのスパーば、お願いします」
「何、この小娘?」
 
聖は、一般ファンをこき下ろすように見た。信じられないというような表情で見下すと、横にいたイケメン男に向かって叫んだ。

「マネージャー、これを叩き出してよ」
 
聖の怒声で一瞬ジムに緊張が走った。だが周囲の選手は何事もなかったように、自分の練習に没頭している。
聖は両脇の練習生らしきボクサーに十四オンス・グローブを外してもらい、四オンスのパンチング・グローブを付けると、サンドバッグを叩き始めた。
 
頭から聖に無視された麗は、戸惑って立ちすくんだ。第一、言葉の発音(イントネーション)が違うことに、凄い違和感を覚えた。方言ではない。テレビで聞くような話し方だった。
 
まごついている麗をイケメン男は、まるで赤子をあやすように優しく諭した。
「青山がさっきスパーをしていた相手は、今度の新人王に出場するプロの選手だよ。顔を洗って出直してきたほうがいいよ」
 
困惑したような顔とスローな口調で説得してきた。生きてる世界や、格が違うとでも言わんばかりだ。男は整った顔立ちだっただけに、よけいに冷たく嫌味に感じられた。
 
麗は、悪夢を振り払うために練習場を出た。
挑発ぐらいしてやっても良かったけれど、感情的になるのも格好悪いからしなかった。無言のまま栄光ジムを後にした麗は、やり場のない怒りを覚えていた。

「同じ高校生で、フライ級……いつか闘(や)ってやるけんね。口じゃなか、ボクシングで決着ばつけてやるけん」