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澄みきった静かな空気が漂う自宅の前で、麗は軽い準備運動を終えると、田園風景の、細いアスファルト道路を走り出した。
田植えの時季まで、もうすぐだから、田圃には水が張られている。早朝だから少し肌寒い。でも十分もしたら体が温まってくるから、ちょうどよくなる。

朝に走るって気持ちがいい。
これから一日が始まることを脳や身体に伝えることで、充実した生活が送れそうな気がしてくる。
麗は口元を固く引き締めた。口ではなく鼻で呼吸をしているのは、昨日の実戦で、口を開けていたことを狩谷に指摘されたからだ。

「実戦と同じく、奥歯を噛み締めて鼻で呼吸する癖を、走る時からつけとくんや」
という狩谷の教えを実践してから、二週間余り。
 
陸上選手とボクサーって、走り方が違う。
バランスを養うために後ろ向きや、横向きで走ったりもする。速く走るためだけの走りと闘う基礎体力作りのための走りでは、自ずと違ってくるのも当然だった。
しばらく走ると、道の両脇に広がる景色が田圃から瓦屋根の民家に変わった。都会の住宅街とは違ってマンションはない。

麗は、母の美由紀と二人で朝食を摂っていた。家は木造平屋の一戸建てである。
木製の茶色い四人掛けダイニングテーブルには、ご飯と味噌汁、卵焼き、漬物、お惣菜が、二人分置かれていた。
母は心配そうに聞いた。

「最近、学校どげんね?」
「普通よ」

母はそれでも不安を隠しきれないようで、表情は曇ったままだった。

「虐められたり、しよらん(してない)? お母さんはね、女手一つで育ててきたから、いつも心配しとるったい。他人様の子に比べて落ち度があるんじゃないとって」
 
以前、麗は父について聞いたことがあった。内縁の夫がいたとしか教えてくれなかった。正式婚ではないから、戸籍にも記載されてない。写真もない。

「こんな自分勝手な父親じゃ、子供が可哀想だから」って、麗が生まれる前に母から飛び出したらしい。
 
麗は、自分の自立心が強いのと母子家庭で育ったこととは、無関係ではないような気がした。幸せに生きていくためには、たった一人の家族である母親に心配かけないようにしなくてはならないし、そのためには強くあらねばならないという防衛本能が働く。
ときには自分や母の身を守る必要だってあるかもしれない。単に好戦的というよりは、結局はそれが格闘競技という道に入っていく最大理由のような気がしてきた。
 
母も他人にはいえない苦労があったのだろう。
人生は時として、自分の意志とは違う方向に進んだりする。思い通りにいかないことも多いし、様々な不測な事態が身に降りかかってくる。それで違う価値観を持つようになれば、考え方や生き方が変わるかもしれない。
 
しかし麗は変わらない。

今の彼女にはボクシングしかないから、他のことには左右されないという確固たる自信があった。麗はそんな自分の現状を再認識しながら、右手で箸を持ったまま、無意識に左ジャブを出した。
思わず、どきっとした。

「麗は女の子やっけんね、もっとお淑やかにせんね」
「はい」
といいながらも、いつまで隠し通せるか不安だった。
 
ボクシングを続けていく上で、最大の難関……一緒に暮らす母親が格闘技、なかでもボクシングが大嫌いだったのだ。麗は負けん気は強いけれど、親の反感には躊躇いがある。母が女の手ひとつで育ててくれたという思いがあるからだ。ジムの保護者承諾サインが、虚偽のものであったことにも後ろめたさを感じていた。
麗は早めに食事を終え、身支度を済ませて学校へ向かった。
     2
麗は学校を終え、自転車で大角道場の前に到着した。
練習にも慣れて、パンチの打ち方も一通り覚えた麗にとって、これからが一番大事な時間だった。
麗は自転車をジムの脇に停めて、喜び勇んでガラス戸を開けようとした。すると、いきなり戸が開いて狩谷が顔を出した。

「よう、今日も元気そうやな。待ってたで」
と、彼は笑顔で麗を出迎えた。まるで待っていたかのようなタイミングだった。
 
ん?……麗は違和感を持った。
 
狩谷は、いつもはジムの中で怖い顔をして選手の練習を見ている。麗が挨拶しても気難しそうな顔をするだけである。
しかし、今日は笑って迎え入れた。

何か、おかしいぞ。
 
二人はしばし、目を合わせたまま沈黙した。妙な間が空いた後で、狩谷が切り出した。
「朱賀、決まったで。明日、福岡市スポーツセンターでボクシングの興行があるさかい、試合前にプロテストや」
 
彼は、そっけない口調で当たり前のように告知すると、さらりと背を向けた。
麗は一瞬、耳を疑った。寝耳に水とはこのことだ。
頭が白くなったというか現実的じゃないというか、ちょっと待ってよと、言いたい気分だった。

「何で、急に?」
狩谷の背中越しに聞いた。

「お前と同じフライ級のテスト生が一人しかおれへんやて。せやから、その相手をするついでや」
 
ついでにテスト? 意味が分からない。
ニヤリと振り返った狩谷を見て、麗は絶対に意地悪だと思った。だから、つい本音が顔に出たのだ。
もちろん麗は、素直にテストを受けるつもりはない。

「土曜日で学校は休みばってん、勝手に決めんでください。凄い自己中です」
「そうやない。ボクシング中心的、ボク中や」
 
麗は、慌てて聞き返した。
「ばってん、まだ、受験申請も出しとらんとに?」
「大丈夫や、女子は人数も少ないからな。コミッションもOKやて」
 
当然のことながらプロテストであれば、麗は慎重にならざるを得ない。ジムでの実戦とはわけが違う。
狩谷は会長に聞いた。

「テスト、行きまっせ」
 
会長はすぐに視線を逸らして無関係を装ったが、脇の下から静かに、右手でVサインを示した。麗は以前から感じていたのだが、この頑固親父とヤンチャ親父は九州弁と関西弁の漫才コンビのような阿吽の呼吸があった。それがまた厳しい練習で疲れた心身を癒してくれたりもした。
しかし、今は不信感さえ覚える。
 
えっ、本気? 会長も先生も二人して、恥をかかせようとしてるんじゃないの? 
と、麗は勘ぐった。それか、麗の反応を見て喜んでるか。もしくは、一か八かという博打みたいな感覚でテストを受けさせようとしているか。いや、そもそも嘘かもしれないし。
 
納得がいかない麗は、道場のトイレに入った。
「プロテストなんて、落ちたら格好悪か。何より相手も必死で向かってくるけん、まだ自信が持てん。どうすると?」
 
洗面所の鏡に映った自分の顔を見ながら、麗は自問自答した。
狩谷にテストを止めると言ったほうがいいか、どうしようか戸惑うばかりである。迷いが吹っ切れないままトイレを出たら、目の前で桜井がミット打ちをやっていた。彼の鋭いパンチと、体の切れを目の当たりにした。
麗が逃げ回った島を、まったく問題にしなかった桜井……これがプロなんだ。やはり、もう少し練習をしないとテストは無理だ。
 
いきなり狩谷は、桜井の頭をミットで殴って怒鳴った。
「打った後のガードが甘いで。気が緩んどる証拠や。お前は、二度目のテストでプロになれたんやから、元々不器用なんやから、もっと自分に厳しくせぇへんと強うなれんで」
桜井の目に鋭さが増して、さらなる緊張感がみなぎった。
すると麗は慌ててシャワー室で、再び練習着に着替え始めた。

「悩んどる暇は、なか。まずはテストば受ける勇気を踏み出せるかどうか。駄目やったら、また頑張れば良かけん」
 
麗は着替えを終え、準備体操をしてバンテージを巻いた。
ジャブ、右ストレート、左フック、右アッパー……麗は一発一発、確認しながら、鏡の前でシャドーボクシングを始めた。

「くよくよしたっちゃ、何も始まらん。明日、プロになるけん」
麗がシャドーをするパンチには、今までとは違う決意を込めていた。