麗は自暴自棄に陥ったあるとき、新宿・歌舞伎町での格闘技イベント《格闘伝説》をネットで知った。思わず、その動画に見入った。だらけた温暖な気候にいきなり雷が落ちた。
麗は、未知の闘いに衝撃を受けた。
もちろん以前にも、格闘技をテレビや雑誌で見たことはあった。しかし一流のプロではない、アマチュアや新人に近いプロ選手の闘いに、親近感を覚えたのである。
春休みだし、気がついたら上京することを決めていた。

初めての東京で、刺激的な歌舞伎町は少し怖い気もしたけれど、そんな不安もリングを見た瞬間に吹き飛んだ。
室内の会場ではなく屋外だから野外ライブのようだが、格闘技はコンサートとは違う。命のやりとりをするリングは神々しくて聖域に見えた。
 
旧コマ劇場前広場の特設リングは、夕方五時前になると照明が床を真っ白に染める。どんよりとした薄暗い空気を、力強い白光が突き抜け、緊張感が会場を覆う。

第一試合、総合格闘技のゴングが鳴った。
椅子がないために、最前列の客は立ったままリングに密着して声援を送った。

「殴り倒せ、関節を折れ、絞め上げろ、ぶっ殺せぇええ」
 
興奮した客たちが、怒号や罵声を浴びせた。その殺伐とした波がリングに押し寄せた。やがてリングは、白い床が血や汗、口から出た嗚咽や唾で徐々に染まっていった。
麗は、格闘技のリングが漂わす存在感を肌で感じた。一瞬でも見逃すまいと、背伸びをしながら人垣を縫うようにリング上の闘いに食らいついた。
 
とにかく凄かった。
リングの中で、鍛えた人たちが技と戦略を使って敵と戦い、雌雄を決することに圧倒された。自分があそこの中に放り込まれたら……と考えた。いや、格闘家たちは自分の意思で、あのリングにいるのだ。その激しい生き方とストイックさに、麗は尊敬の念さえ持った。
 
空手、ボクシング、キック、柔術、総合の試合に出場する選手は賭けの対象に過ぎない。そんなリングは、まるで闘犬場だった。
 
通行人や格闘技ファン、選手の家族、友人、恋人が観客だが、血の気の多いキャンブル愛好家たちは自分の生活を懸けて殺気じみた声援を送る。カジノ構想が品を替えて、まずは《格闘伝説》から試験的に始まったといえた。
 
闘犬場(リング)での格闘伝説は非公式で行われるため、選手の戦績には残らない。プロを目指す男女や、ブランクを作ったプロの選手が力試しに挑むこのイベントは、いわば公開スパーリングだった。したがって、経歴や戦績を記したパンフレットはない。だから情報はリングでの実力のみ。
 
格闘技関係者やマスコミも注目するこの格闘伝説は顔を売るのに格好の舞台であるし、何より観客を前にしてやる試合形式の実戦は、カンと度胸、実力を養うのに最適だった。
 
陸上と格闘技という全く異質の競技だが、麗はリング上での身体を張った試合に鬱憤を晴らして興奮した。闘いというカテゴリーにおいて、徒競争と格闘の違いはない。だが、相手を打ち負かしたり降参(タップ)させたりするという意味では、目前で見る闘いのほうがより分かりやすい。

「闘争心が強か私は、格闘技が向いとるかもしれんばい」
 
思わず呟いた麗は新たな闘争本能に目覚め、これから試合を始めようとする女子ボクサーたちに拍手を送った。
黒いタキシードを着たリングアナウンサーがコールを始めた。

「只今よりアマチュア・女子ボクシング、フライ級の三回戦、一R二分を始めます。青コーナー、桜咲子。赤コーナー、風吹影鯉嘩(ふぶきえりか)」
 
リング上は女子ボクシングの二試合目で、影鯉嘩という筋骨隆々の選手が、闘いを待ち切れないようにイラついた顔で立っていた。

「長嶋さん、うちの影鯉嘩を雑誌で紹介してくださいよ。ばっちり倒しますからね」と、影鯉嘩のセコンドがリング下の男に叫んでいる。すると長嶋は、右手を挙げて笑顔で応えた。
 
カァーン。
 
試合開始のゴングが鳴ると、影鯉嘩は短距離走のごとく迫って相手をロープまで追い詰めた。しかし、咲子もジャブと右ストレートで応戦している。早くも激しいパンチの応酬が始まった。弾けるような音が連続して聞こえ、いつの間にか影鯉嘩の相手はうつ伏せに倒れ込んだ。
 
すると静かだった観客が、どっとどよめいた。
どんなパンチがどこに当たったのか麗には分からなかった。リング上には、這いつくばる咲子と、それをこき下ろすように蔑んで見る影鯉嘩がいた。やがて咲子は、天を仰ぐように勝者を見上げた。それから影鯉嘩は自分の右こぶしで胸を叩いて、観客に自らの存在をアピールした。まさに明暗がリング上の色を変えた。
こんなにも冷酷無比で、非情なコントラストが格闘技という競技なのか。
 
この日、様々な格闘技が行われたが、麗はとりわけ女子ボクシングに熱狂した。
格闘魂を拳に託しての殴り合いはスリリングな緊張感を生み出すし、決着がついた後は、お互いに健闘を讃え合い、清々しく抱き合っていた。厳しい中にも爽やかさがあった。

競技の価値は選手によって作られるが、ボクシングの魅力は、健康的な艶を持った同性ボクサーによって再認識させられた。女にとって命の次に大切な顔を犠牲にしてまで闘う。
今の麗にとっては別世界だったが、絶対やってみたかった。
それとともに公式試合(マラソン)に出られない挫折感が吹っ切れて、リング上の勇姿に自分自身を投影した。すると、未知の喜びが身体の芯から溢れ出てきた。
 
麗は女子ボクシングの一R二分間に、すべての命を燃やすつもりでリングに上がりたい。格闘技は、そんな麗の思いを受け止めてくれる唯一の場所であることを確信した。

「強かって格好良(よ)かぁ」
 
強さとは、男だけに与えられた特権ではない。強いって美しい……だから、女にだって強くなる権利はあるはず。ボクサーの無慈悲なKOシーンも、華麗に見えるのは美しさがあるからだ。
麗は、美しい強さを身につけたかった。