福岡県柳川市の住宅街は静かに朝日を迎えた。
昼間は排気ガスが充満しているが、早朝の空気は澄んでいて聖は爽やかな気分だった。彼女は、自宅の庭で準備体操を終えると門を出て、おもむろに走り出した。
寝静まった暗い道路(アスファルト)は、新聞配達のバイク音が蹴散らすと明るくなった。普段の朝となんら変わらなかった。

しかし今日は、いつもと何かが違った。得体の知れない視線のようなものを感じた。
聖は辺りを見回した。
少し先に、電柱に隠れてカメラのシャッターを切る男や、路地の脇には自転車で待ち構えている男がいた。
聖は欠伸を噛み殺した。

「朝っぱらからご苦労なことね。私の拳は神聖なるもの、汚すことはできない。ストーカーなんてこれで充分よ」

ポケットに忍ばせてある催涙スプレーを、スウェットの上から指でなぞって確認した。
だが、彼らはまとわりつくだけで襲ってくることはなく、催涙スプレーを使う機会もなかった。

聖は四十五分のロードワークから帰ってくると、戸が少し開いたダイニングを素通りしながら、ちら見した。父と母が食事をしていた。父の朝食は焼き魚の和食で、母のはフルーツの盛り合わせやヨーグルトなどである。二人ともいつも通りの内容だった。
静かな空気に、父の低い声が響いた。

「この前雑誌で見たが、聖はボクシングをやってるんだって? すぐにやめさせなさい」
「言って聞くような子じゃありませんよ」

聖は、ダイニングの横にある踊り場でストレッチを始めた。
大学生で兄の純太郎が、パジャマ姿の寝ぼけ眼でダイニングに入っていった。お手伝いさんに食事を頼んだようだ。

「僕、フルーツとフレッシュジュースだけでいいや」
「最近、朝が遅いんじゃないか」という父の声がした。
「大学で主催するイベントが多くてね。その二次会で、いつも超盛り上がりなんだ。それで結局、帰りが遅くなって……」

最後のほうは声が尻すぼみになって、よく聞こえない。
銀行の頭取である父に兄が聞いた。まるで空気を一新するように、声のトーンが上がった。

「パパ、バブル経済の時に裏社会や政治家と結託して地上げした末の不良債権が多かったんでしょ? そこに融資したお金を返してもらうことなんて、無理だったでしょ?」
 
なぜ兄が、いきなりそんなことを言い出したのか聖には分からない。テーブル上の朝刊や雑誌に関連記事が載っていたのか。それとも以前から兄の中で疑問に思っていたことかもしれない。もしくは、遅い帰宅を突っ込まれたくなかったのか。
どちらにしても兄にとっては、さしたる問題でないように思えた。
しかし父は、曖昧な返事はしなかった。

「そうだ。だが政治家が我々に責任追及できなかったのは、政治献金の名目で多額の寄付をしてやったからだ。民間企業とはわけが違う」
「さぁすが、パパッ」
「だから俺は社会における、勝ち組の中の勝ち組なのだ。純太郎も今のうちに遊んでおけ。卒業したら、衆議院の宗方君のところに預けるからな」
「絶対政治家になってみせるよ」
兄は、自信ありげだ。

「そしたらママにも箔がつくわね」
母は夫と長男に、逞しさを覚えただろう。
 
古い宮殿を思わせる西洋アンティーク調の家具と食器で統一されたダイニングに、静かな笑い声が響いた。
しかし聖は、そんな家族の中で浮いた存在になりつつあった。どうしても溶け込めないのだ。聖自身も、プライドは高いし自意識過剰なのは自覚していた。だから好き嫌いがハッキリしているのだろうが、まさか家族に対して嫌悪感が湧き出てくるとは最近まで思いもよらなかった。

柳川市にある名門・柳川南高校の前にバスが停まった。そのバスから出てきた聖に、同級生(クラスメイト)の有紗がおはようと言いながら走り寄ってきた。有紗は、少し息切れしたように荒い呼吸をしながら聞いた。

「どげん(どう)ね、ボクシングの調子?」
 
見上げる有紗に対して、聖は前を見たまま冷めた表情を見せた。感情を表に出すことはない人形を演じた。
「普通だけど……今、デビュー戦の相手を探してるんだよね」
「聖のごつ(ように)、モデルで、成績も首席の子が……何でボクシングばすると?」
「だから次に私が求めるものは強さ、になるわけ。それがどういうものか知りたいだけよ。最強になったら何が見えて、どう感じるのか」
 
いい退けると聖は、校門を颯爽と通り抜けた。歩きながら荷物が落ちたような気分だった。
その荷物が、これ以上ついてくることはなかった。
有紗は、きっと近づくことも許されない格差を感じただろう。だから、立ち止まって聖を見送るしかなかったに違いない。
有紗の捨てゼリフが、聖の背中に突き刺さった。

「完璧っちゆーか、なんかムカつくったい。せっかく友達になってやろうっち思ってやったとに」
 
憧憬が嫉妬交じりの義憤に変わったようだが、もはや聖には関係なかった。別に有紗を嫌っているわけではないし、蔑んでもいない。
しかし自分が他人を寄せ付けない雰囲気を持っていることは、彼女自身分かっていた。だから友達もいないのだけれど、それはそれで仕方のないことだと諦めていた。

完璧とは孤独なり……これが聖の座右の銘だった。

そう考えるとセレブ気分の家族と隔離した心境というのは、ただの我がままかもしれないし、あの三人とは一緒になりたくないのかもしれない。
でも、自分をいろんな可能性(ポテンシャル)のある人間に産み育ててくれたことに対する感謝は忘れなかった。

放課後、聖は福岡市内のスタジオで撮影の仕事に入った。彼女は、若い世代向けファッション誌《NOUVELLE(ヌーベル)》の専属モデルである。
ボクシングを始めてからというもの、ファッション・モデルの仕事は正直やりたいとは思わなくなった。学校とジムの往復だけで疲れるからだ。早朝ロードワークもある。
当然モデルだって気は抜けないし、厳しい世界である。

二束のわらじができるほど甘くはないが、だからやりがいもある。激しいジムワークとは対照的に優雅な華となって自分を表現するギャップを楽しむこともあった。
しかし今は、プロになりたてのボクシングに未知の刺激と魅力を感じてしまっていた。

それでも、経済的に独立するためにはモデルを辞めるわけにはいかない。
ボクシング人生に悔いを残さないためにも、まずは食生活が第一である。なぜなら日々の練習に耐えるためには、きちんとした食事で充分な栄養を摂る必要があるのだ。それで体力を養い、試合が決まってから減量に入るのである。
高校生の聖は親と同居しているのだから、自立しなければならないわけはない。しかし、いつかは親から離れなければならない。三年生だし、遅くとも来年までには自分の部屋を探す予定である。
独立心が強いこともあるが、家族を蔑視していることも無関係ではなかった。

これから未経験の試合も控えているし、観客の前でボクシングをすれば自分にも分からない自分を知ることができる。いったいどんな表情でリングに上がり、いかなるパフォーマンスをするのか。最後にどんな姿で勝ち名乗りを受けるのか。
そして、どんな内容であれ勝てば歓喜するのか……そう考えると、聖はまだ自分のことすらよく分かっていなかった。

今日のスタジオは居住用マンションの一室で、六畳の寝室と十八畳ほどのLDKの間取りだった。聖はリビングの観葉植物に微笑みかけたり、ロングソファに寝そべったりしてポーズをとった。立て続けにシャッター音が聞こえた。
 
レンズを通して見る男性カメラマンが、聖を誉めちぎった。

「まるで別世界を見ているほどに綺麗だ。ありえない美は、周りの人間さえも豊かにして幸せを与えられる」
というありきたりの煽てにも聖は悪い気はしないが、あまり高揚することはなく聞き流した。

五月初旬だが、聖は初夏の服を着ていた。五月晴れのこの日、彼女は清々しい青ではなく熱い赤と眩い白の表情を交互に作り出した。違う季節の顔でポーズを決めるのがモデルの仕事であり、それだけの表現力が求められる。
カメラマンが構えるレンズの向こう側には、何十万人という読者やファンがいて自分を観ているかと思うと、やる気ホルモンであるアドレナリンが体内の奥底からあふれ出てきた。
やはり聖は他人に見られる職業が合っていて、そんな彼女にとってはモデルという仕事も自分が自分らしくあるための一つの手段であることを再認識した。

芸能事務所の社長でありボクシングのマネージャーでもある赤坂も、カメラマンの横から聖を見ていた。

「青山いいぞ。一流ボクサーを目指しながら、片やトップモデルでもある独特の個性が、いい雰囲気(ムード)を出している。それはお前にしか出せない唯一の光だ。目に見えない無色透明な空気を、いかに写真で魅せられるかがプロの条件だからな」
 
やはり赤坂は、聖の誉め方がよくわかっている。
冷静(クール)に澄ました聖だがしかし、内心はスキップでもしたい気分だった。
事実、心臓は何度も飛び跳ねた。