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練習量を減らしてからの一週間は、あっという間に過ぎた。麗はあまり緊張せず、自分が試合をする実感もなかった。
駅伝のときもそうだったが、他人より練習したことを自覚して納得できているから自信もあるのだと思った。

今日の福岡スポーツセンターは、女子だけのボクシング興行だった。
青コーナーの控え室の隅では、麗の拳にバンテージが巻かれていた。
選手である麗は、椅子に座って机の上に拳を置いていた。向かいの狩谷は、立って机越しに巻いている。
練習のときの巻き方とは違った。布製のガムテープも使いながら、拳の周囲を固定していく。バンテージは固く巻いても拳が痛いし、緩いと強く握れない。
ちょうどよく加減をするのは、トレーナーの仕事である。

麗は、ただ自分の拳を見ていた。
何も考えないでリラックスできるものなら、そうしたい。他人から見たら無表情に見えるだろうけれど、心臓は激しく鼓動している。普通に息もできないし、ここから逃げ出したいという思いもある。

同じ控え室では、試合に出場する他の選手たちが思い思いの場所を陣取って、ウオームアップをしたり関係者と話をしたりしていた。
試合が終わった選手が控え室に戻ってきたら、勝ったか負けたかで持ち込む空気の色が違った。
白であったり黒であったり。引き分けなら、白に近い灰色(グレー)だ。黒っぽくないのは、負けなかったことに対する安堵感だろう。いや、勝っていたと思っていたけれど引き分けだったらダーク・グレーになるのかもしれない。

「昨日は、ちゃんと寝れたか?」
 
狩谷は、普段見せない優しい顔と労わるような口調で聞いた。
「はい」彼女は笑顔で頷いた。
「ボクサーが一番緊張するのはな、控え室でバンテージを巻かれるときや。どや、今の気分は?」
「別に、何も考えとらんです。ここまで来たら、なるようにしかなりませんから」
「心臓に毛が生えとるな、お前」
「それ陸上の監督にも、言われたことあります」
 
屈託がないように笑う狩谷に釣られて、麗も笑みをこぼした。
陸上の監督の言葉は本当だが、彼女にとって笑えない部分もあった。自分の脳を犠牲にするわけだから。
でも、それを言ったら始まらない。
 
狩谷がバンテージを巻き終えると、麗は自分の左右の拳を固く握り締めた。布の感触が拳に馴染んでいるか、確かめたのだ。どうやら布が皮膚の一部になった。
会長や先生を押しのけて決めたこの試合、絶対に勝つ、と麗は誓った。

布を巻き終えたころ、控え室のドアが開き、関係者らしき若い男が麗に近づいてきた。
「朱賀さん、バンテージを確認します」
麗は両拳を見せた。若い男は、相手に直に当たるナックル部分と掌を押さえながら入念にチェックした。
「はい、OKです」
言いながら彼は黒マジックで、確認済みのサインを手の甲部分にした。その後、試合用のグローブを手渡すと部屋を後にした。

「先生、今の何ですか?」
「バンテージの中に、硬い物を入れてないか見たんや。たとえば十円玉を一枚、握り締めただけでパンチ力が増すからな」
「試合用のグローブって、新品ですね」
「それは、お前がセミファイナルに出るからやで。四回戦や六回戦は、使い回しやからな」
 
それとな……狩谷は一呼吸置いて続けた。
「メインはテレビ放送はやらんが、セミはやる。お前に余計な緊張をさせたくないから、言おうか迷ったんやけどな、どっちみちリングに上がったら分かることやから」
 
改めて、人気者と闘うことの実感が湧いてきた。しかしこれをチャンスにして、自分に注目をさせてやると麗は思った。
控室には、試合会場の音が響いていた。天井に備えつけてあるスピーカーから洩れてくる歓声だった。感度が悪い雑音の入った音声だが、臨場感に溢れる雰囲気が伝わって、麗は自分が試合会場にいるように錯覚した。

「私の試合、もうすぐですよね」

狩谷は麗を諭した。
「今、始まった試合の次が、お前の出番や。せやけどテレビ付きのセミやからな。休憩を挟むさかい、慌てんでええよ」
 
余計なことを考えないで狩谷の指示に従っていればいいと、麗は自分のコンディションだけを気遣うようにした。と思い耽るのも束の間、スピーカーからひときわ大きい歓声が聞こえてきた。それとともにゴングが激しく打ち鳴らされた。
 
もう勝負がついたようだ。
六回戦の試合だったが、判定のことも考えていたから気持ちの切り替えが大変だった。

「第一R、一分三秒……宮武選手のKO勝ちでございます。これより、セミファイナルの試合まで、十分間の休憩を致します」

アナウンサーの声が控え室に響くと、無表情な狩谷の口からドスの利いた小さい声が響いた。
「そろそろ行くで」

麗の肩に、白くて大きいバスタオルがかけられた。
控え室を出た麗は、戦に向かう侍になったような心境だった。麗はリングという名を借りた戦場へと進み、刀を拳に換えて勝利の充実感を得たかった。

花道の入口のところまで来たら場内が明るくなって、疎らだった会場に人が埋まり出したのに気づいた。
リングサイドの放送席では、実況のアナウンサーが口を動かしている。
試合がテレビで放送されることを実感した。だったら、会場に来ていないボクシングファンや深夜族が見るからなおさら負けられない。観客も実況も視聴者も、麗の一挙手一投足に注目しているのだ。
リング上のレフェリーが麗を見ながら手招いている。

「よし、朱賀」

狩谷の短く強い口調が掛け声となって、麗はリングへ向かうと、すべての観衆が彼女に注目した。
何で、あんな普通の子供がボクシングを? って思われているように麗は感じた。その意味では、プロとしては損かもしれない。
影鯉嘩のように野生的で威圧感があったり、聖のように綺麗でスター性があったなら、もっと人気も出るのにと思った。
 
麗は肩から白いバスタオルをかけ、青コーナーの花道から狩谷とともに入場して、静かにリングインした。
リング上から客席を見渡したら、いつの間にか満席状態になっていた。

突然に場内が暗くなった。
同時に観衆が息を飲んだように、会場全体を緊張感が覆いつくした。その暗いリングに、恰幅のいい黒いタキシード姿のアナウンサーが現れた。静まり返る空気の中で、野太い声が響いた。

「赤コーナー側より、青山ぁ聖ぁ選手の入場です」
 
すると観客のボルテージは、一瞬で頂点(マックス)に達した。ここはさしずめ、聖一人によるコンサート会場であるかのようだ。

花道の入口に見えた聖の顔にスポットライトが当たると、そのまま彼女は観衆の前に現れた。聖はフードを被り、白いロングガウンを纏っていた。目映いばかりの華が、花道を歩いている。
狩谷は、吐き捨てるように言った。

「おいおい、この差は、いったい何なんや? まるで俺ら引き立て役やんけ。舐めとったら、あかんでぇ」

もろ怖い世界のお兄さんのような顔になって、文句が進むごとに声も大きくなっている。そんな狩谷のほうがヤバいと麗は思ったが、当然彼女自身も面白くない。しかし観衆はまったく無関係とばかりに大はしゃぎしていて、それがまた麗たちをさらに孤立させた。

「先生、良かとですよ、試合で勝てば」
 
狩谷は怒った顔を、そのまま麗に向けた。
「おう、その意気や。お前が勝てば立場が逆転するんやからな」
 
麗は、思わず天井を見上げた。照明が眩しかった。
「ライトが眩しか。ここから客席ば見ると、リングっち何だか浮いとるごたる」
「リングいうんは離れ小島でな、客席とは別世界なんや」
「ばってん、皆が私に注目しとるし、視線が痛か」
「それが、練習と試合の決定的な違いや。ええか、周囲の客席に惑わされんで相手にだけ集中するんやど。えてして試合のリングに慣れてへんと、注意力が散漫になるからな。まずはリングを踏みしめて、自分のステップを確かめてみろ」
 
麗は靴底全体で床を踏みしめた後、つま先で軽くフットワークをした。リングのマットは板張りより弾力性はあるが、大角道場のマットより硬く、アウトボクサーの麗には好都合だった。これでますますフットワークが速くなるような気がした。
麗は、まずステップを確認した。
自分のパンチのリズムやキレに納得し、自己の世界を確立しつつあった。
デビュー戦の麗にとって、五感で感じる何もかもが初めての経験だった。

「ここに絶対に倒れちゃ、駄目(でけん)と」
 
独り言の麗を尻目に堂々とリングインした聖は、ゆったりとした動作で白く輝くガウンを脱いだ。それをリング下の関係者に投げ捨てると、また歓声が沸いた。まさに、衣装を操るモデルを演じている。
聖の超ミニでピンク色のトランクスが、細くて長い足をさらに引き立たせていた。麗のは靴に合わせた純白トランクスである。
 
聖は観客を見渡しながらシャドーボクシングを始めた、というよりは披露した。聖の派手なパフォーマンスにファンは酔いしれている。
聖流の、シャドーダンス・ショーのお披露目である。
 
麗は、聖に見とれてしまいそうになりつつも対抗意識を燃やした。派手な演出に対してではない、ストイックなボクサーとして敬意を払ったのだ。
 
雑誌の記事によると、聖はモデルであるよりボクサーであることのほうが大事らしい。
つまり、本業の片手間や話題作りのためにボクシングをやっているのではない。だからこそ麗は聖を全力で潰しにいくし、またやり甲斐もある。それができなかったら、麗がボクシング界から去るだけだ。

「あいつ、歌でも唄うんか」
狩谷が皮肉った。いきなり聖がマイクを持ち出したのだ。