麗は、福岡県立大川東高校二年になった。その日、麗は一日の授業が終わると教室を後にした。
一階の下駄箱がある脇のスペースで、上級生の不良っぽい男たち三人が、壁を背にした細くて気弱そうな男を囲んでいた。
思わず麗は、成り行きを見守った。

「お前がチクったとやろうが」
「おかげでおっどん(俺たちは)は、職員室に呼び出されてくさぁ」
 
顔面蒼白の細い男を、真ん中の男が襟首をつかんだまま締め上げた。細い男は苦しそうに呻いた。
麗は勇気を振り絞ることができず、黙って見ているしかなかったが、一人の男が後ろから声をかけた。

「止めんか、弱いもんいじめは」
 
その精悍な顔をした男の胸を、すかさず真ん中の男が押して威圧した。どうやらリーダー格のようだ。
「何か? 桜井」
いきなり、横にいた大柄の男が桜井に右のパンチで殴りかかった。しかし、桜井はバックステップをして拳は空を切った。

「止めて」
 
気がついたら麗は、大柄男と桜井の間に入っていた。
「このクソ女、どげんしたとか?」
「お前、マラソンの女やろ……?」
と、今度は三人は麗に向き直って視線を注いだ。麗は突発的な自分の行動に驚いて、口ごもるしかなかった。

周囲がざわめく中、三年生を受け持つ先生がかき分けるように現れた。麗は安堵感を覚えた。
「プロボクサーのお前が、喧嘩しちゃいかんやろうが」
先生の戒めに、桜井は頭をうなだれて悪びれた。

「先生、桜井さんは虐められよった生徒ば助けただけです」
麗は代って弁解すると、細い男も桜井に感謝した。
 
内情を把握した先生は、不良グループと細い男と桜井を連れてその場を立ち去った。
三年の桜井修斗。
勇気と、軽やかなフットワークを目の当たりにした麗は、さらにボクサーに傾倒していった。

校門の周囲には男女が入り乱れて、放課後の解放感に浸っていた。女子生徒たちは早くも私服に着替えて、これからの予定に雑談の花を咲かせているようだ。
地方の田舎町でも、若い女の子はファッションには敏感である。情報はネットや雑誌でチェックするし、同じ物を通販で買える。
同じ学年でも、男子は子供っぽくて無邪気で、まだ田舎っぽさがある。そんな彼らが脇役に追いやられる校門前を、自転車に乗った麗は颯爽と通り過ぎた。

「麗、どこへ行くと?」
 
歩美が声をかけてきたが、無視した。今は説明している時間がなかった。
授業中からボクシングのことしか頭になかったのだ。歌舞伎町で《格闘伝説》を見てから本当の目的に出会ったような気がする……と麗は思いつつ、いったん切れた歩美との糸を笑顔だけで繋ぎとめた。歩美は阿吽の呼吸で頷くと、その場を立ち去った。
でも、見えない糸は強い絆となって友情として保てる気がした。

大川市街地の中心に『おおかわ銀座商店街』があった。飲食街の上を見ると青空が綺麗で、道路の脇ではお年寄りや主婦たちが雑談していた。その道を自転車で走っていると、唐突に《大角(おおすみ)拳骨(げんこつ)道場》の看板が目に飛び込んできた。
 
毎日のように通る道なのに、今まではボクシングジムなど意識しなかった。見慣れた風景であるが、記憶を辿ってみてもはっきりとは覚えていない。まるで空気のように、存在するのが当然であるかのごとく気にも留めなかった。だから、麗には初めて見るかのような違和感があった。

「こげんか(こんな)ところにボクシングジムがあったとね」
 
鉄の看板はだいぶ錆びついていて、ペンキの色は長年の雨風で薄くなり、ところどころ剥がれ落ちていた。
向かいの鈴木肉店では、オジサンとオバサンがいろんな肉を並べたショーケースの内側で、客待ちの状態だった。二人とも穏やかで優しそうな顔をしていた。

大角拳骨道場――。
二十畳ほどの古い木造二階建ての道場は一階がジムになっており、練習風景はガラス越しに外から見えた。
麗は、こらえ切れずに吹き出した。

「よう見たら、おんぼろジム」
 
サンドバッグを叩くときの音や、気合いの声、縄跳びの音、年配男の怒鳴り声が聞こえてきた。背景には昔のロック風の洋楽が流れていた。麗自身も八十年代のハードロックが好きだった。ラブソングは、あまり好きではない。恋愛よりも生きることのほうが大事だと思うからで、激しい音楽は彼女に力(パワー)を与えてくれた。
ガラス戸に殴り書きされた、大角拳骨道場の白いペンキ文字がいかにもレトロな風情だった。麗は自転車から降り、大角道場前に立つと初めて中を覗き見た。

「それにしても、古かジムね。汗臭か匂いがする」
 
麗は思わず鼻を摘んだ。でも覗き見感覚でガラス越しに見る練習風景は、何か未体験のテーマパークのようである。
早く体験したい衝動に駆られて、両脚を小刻みに震わせていると、年配のおじさんが突然ガラッと強く戸を開けて道場の中から顔だけ出した。
知らないおじさんに睨まれた麗は、ビックリして唐突に聞いた。

「ここって、ボクシングジムですよね」
 
至極当然のことを聞いてしまったが、何か喋らないと、この怖い顔を見ているだけでは辛かった。呼応した彼の口調は無愛想だった。

「そうばってん(だけど)、何じゃ? ワシが、ここの会長の大角拳次郎たい」
 
大角会長は、白髪混じりで短髪の和服姿だった。強面風の、いかにも頑固親父に見える。そんな会長の孫に近いような世代の麗は、だが物怖じしなかった。

「朱賀麗といいます。入門ば、させてください」と、直截に頼んだ。
「朱賀? 別れた女と、同じ姓やっか(じゃないか)」

大角会長は、眉を顰めた後で口角を上げた。
「朱賀に田中に後藤に、いろんな女が居(お)ったなぁ。俺は女にモテたけんのう、ウシシシ」
今度は、麗が呆気にとられた。鼻の下を伸ばした助べえ親父が、馬鹿ヅラを丸出しにしている。

しばらく含み笑いをしていた会長は、いきなり斟酌のない態度を見せた。
「駄目っ、駄目だ。うちは女人禁制。狭い道場で真似事でん(なんか)されちゃ、選手は迷惑たい。ボクシングは男の聖域じゃぁ」
 
会長は異物が混入するのを防ぐような露骨な拒絶反応を見せると、戸は勢いよく閉められた。
麗は立ちすくむしかなかった。
体の力が抜け、肩が落ちて小さく溜息を漏らした。ガラス越しの会長の背中を見て、ボクシングへの道を閉ざされた絶望を覚えた。すると選手たちが、蜃気楼のように異次元に感じられた。
 
ガラス戸から洩れていた選手や会長の声、サンドバッグ打ちの音が遮断された。何も聞こえなくなった。汗臭い匂いも感じなくなって、練習風景が客観的に見えてきた。
 
そんな麗と道場を仕切るように風が吹いた。まるで両者を分け隔てるようだ。仕方なく麗は自転車を押してその場を後にした。

楽しみにして、せっかく足を運んだのに。
麗は思わず大息がもれて、無期限処分を食らったときの投げやりな気持ちになってしまった。
重たい足取りで歩き出した彼女の前からワゴン車が走ってきた。車は道場の前で停車した。麗はワゴン車の中を、窓の外から無意識に見ながら通り過ぎかけた。

いきなり引き戸式のドアが開くと、中から建築現場監督のような、鉢巻に作業服姿で口髭の男が出てきた。身長一八〇センチ近くあって、がっしりした体型をしていた。雰囲気もいかにも男臭く、いわゆる今風の若い男子とは生きている時代が違うようだ。
 
車内の若者たちは、ゆったりとして風格があるその男を道場に送り出した。
「監督、お疲れ様でした。頑張ってください」
 
口髭男は見送りの声を背に受けて、威風堂々と応じた。
「おう」
現場で常に大声を出しているからか、声が潰れている。
ワゴン車は去り、口髭男は道場のガラス戸を静かに開けた。しかし中には入らず、その場に立っていた。