翌日、麗はふて腐れたまま、大川東高校野球部のグラウンドのライト側ベンチにいた。ボクシングとは別世界に追いやられたことを自覚していたが、このまま辞められないという意地もある。
しかし、事実上の追放宣言だった。

「あげん(あんな)古かジムなんて、辞めても良かばってん、あの親父だけは絶対に認めさせてやるけんね。でも、どげんしたらよかと? ワン・ツー以前に、まずは強か右ストレートば身につけんといかん」
 
麗にとって、一番難しく感じられた右だった……と、そのとき人の気配に気づいた。
級友が三人、わらわらと集まってきた。そういえば、ここは不良生徒たちの喫煙所だった。

「よう、麗、どげんしたと?」
 
和樹(かずき)、純也、英子の三人が麗を囲んだ。麗はボクシングジムに入門を許されたものの、すぐに出入り禁止になったことを告げた。やはり、三人は麗に同情した。

「駅伝で無期限ば食らうし、ボクシングも」
「続けて二度の挫折っち、きつか(きつい)ぜ」
 
英子の怒りは一番だった。
「ばってん、その会長(オヤジ)ムカつく。男女差別っちいうか、女ば馬鹿にしとるよ」
細身の英子は、鋭い目で冷淡な表情をした。
 
味方になってくれた三人にありがたさを覚えながらも、麗は自分が置かれた立場を自ら振り返った。
「マラソン始めたのも、無期限も……ボクシングば始めるための序章(プロローグ)やったと、勝手に思うたりしたばってんね。これから先、どうなると?」

「頑張れよ」
「応援しとるけん」
 
麗にしてみれば、普段は快く思っていない彼らの何気ない言葉が意外だったし、だから余計に彼女の心を癒した。とにかく三人は、絶望に追い詰められた麗の気持ちを分かってくれたようだった。

「もしかして、プロば目指しよっとか?」と純也が言えば、和樹がすぐに呼応した。
「米国じゃ、女子の人気選手になれば、数千万のファイトマネーば稼ぐらしかぜ」
「マジでぇ」
 驚く英子の横で麗は、平静を装った。
「プロ? まだ、パンチの打ち方も知らんとに」
 
三人は喫煙し始めると、麗に勧めてきた。
「うまかよ、これ」
「お前、今まで走ってばっかりやったけん、少し遊ばんか」
 
純也は箱から一本取り出して火を点け、麗の顔の前に差し出した。麗は煙草を受け取ったが、火がついたまま足元に落とした。
「煙草の煙は、好かん。身体にも悪かしね」
優しい気持ちは分かる。だけど、煙草は受け入れられなかった。麗は心の中で謝った。
 
静かだったはずのグラウンドに人の気配がしたと思ったら、野球部の主将である深田新太郎がいた。グラウンドのサード側にある機械相手に、打撃練習を始めようとしている。
 
普段から自分を持て余し気味の三人組は、からかい気味に深田を笑った。十メートルぐらいの距離だから、迫力と緊張感が伝わってくる。

「カーッ、昼休みも惜しんで練習ばしよっぜ。これが世にいう青春か。深田さん、青山聖(きよら)と付き合っとるっち噂ぜ」

純也の小声に、和樹が相槌を打った。
「人気モデルと、未来のメジャー・スラッガーのビッグカップルやろ?」
 
しかし、英子は否定した。
「ただの友達げな(だって)。実は恋人としては、聖に相手にされんやったというのが真相らしかよ」
ひそひそ話の三人の声は、深田には絶対に聞こえない。
「実は俺……」
純也は生徒手帳から、ファッション誌の切り抜きを取り出した。それは凛とした女性モデルの格好いい姿だったが、麗は誰か分からなかった。
憧れるように写真を眺める純也を、英子と和樹がからかって笑いだした。
「純也、ミーハーやね」
「お前、たかが隣町の高校の女やっか(じゃないか)」
和樹が言うと、純也が頬をふくらませて反論した。
「隣町やろうが、ミーハーやろうが、良(よ)か女は良か女たい。現に人気モデルやっか」
どうやら写真の彼女が青山聖らしいが、そんな三人の話をよそに、麗は深田のバッティングに注目していた。

深田のスイングは凄まじく、それに勝る打球がネットに飛び込んだ。
ネットは守備範囲を超えたところを想定しているから、そこに届くということはホームランである。三人は、煙草を咥えたまま唖然とした。
「あの機械の球、一五〇キロくらいあるばい」
「それば、軽々と」
「メジャーも狙っとるって噂は、オーバーじゃなかよ」
すると深田が打席から麗に向かって叫んだ。
「朱賀、無期限食ろうたぐらいで落ち込んどったら、これからの長い人生大変ぞ。こうやって、球ばカッ飛ばすと気持ちよかぜぇ」
 
深田は麗を、同じアスリートとして認めて気にかけてくれているのだ。そうでなければ大事な練習中に他人に声をかけることはしないだろう。

麗は内心嬉しかった。
そんな深田の誘いに「えっ?」という感じだったが「よぉーし」と、勇んでバッター・ボックスに向かった。
三人組は、遠目で見ながら微笑している。どうせ打てるわけないさ、なんて馬鹿にしているようにも見えた。こうなったら、かっ飛ばして三人をびっくりさせることで鬱憤を晴らしてやりたかった。
 
麗は周囲を見回した。本人のやる気とは裏腹に静まり返っていたが、誰もいないグラウンドは、かなり広く感じられた。だから余計に外野のネットまで遠く感じた。
深田は、球の速度を調整した。

「球のスピード、八十キロにしたけんね」
 
機械から飛んでくる球は、程よい速さの打ちごろであるように思えた。
しかし。
麗の打球はバットに当たってもボテボテのゴロだった。

「上体が前のめりになっていて腰も回転していない」と、深田に指摘された。打った後もバットを振り回して、体が大きく流れてしまっていた。
虚しく空を切るバットは、今の麗を象徴している。やることなすこと、全部が空振り……人生も、打撃も。
そんな麗に、深田は丁寧にアドバイスした。
「体の回転軸は、ブレたら駄目」
右ストレートに例えたら、前のめりになるなということだろうか。
「腰ば溜めて、腰で打て」
麗は試しに腰を思いっきり捻ると、力が入ってバットが思いきり振れた。やはり右ストレートも、これと同じ動作で強く打てそうな気がした。
「打ち終わった後、体ば流すな」
パンチもそうだった。
「バットば、ただ力任せに振り回すとじゃなくて、コンパクトに芯で捉えろ」
これも、パンチを大ぶりで強振しては駄目なのと同じである。

深田の言葉通りに麗がフォームを変えていくと、打球が徐々に力強くなっていった。理論を体得できたことに面白さを感じながら、外野まで届く打球に何かが閃いた。
球を遠くに飛ばすのと強いパンチを打つことは理論的に同じ……何と、あのトレーナーの指導は正しかったのだ。

「いやー、さすがに良か運動神経ばしとるね」
深田は不審に思うほどに驚いたようだ。

弾け飛ぶボールは、麗自身の未来であると信じたかった。その勢いが糧となった麗は、自分の現状を深田に伝えずにはいられなかった。
「私、最近ボクシングば習っとったけど、全然パンチば打てんやったけん出入り禁止になってしもうて。まずは強か右ストレートば打ちたいとですが、打撃(バッティング)とパンチは似とる気がするけん、何かヒントば掴めれば」
 
すると深田は、即座に助言した。さすがに一流スポーツ選手は飲み込みが早い。
「確かに打撃とパンチは似とるが、違うところもある。俺が見たハードパンチャーの右ストレートは、腰とともに右足首の捻りが凄かった。それは、下半身で打っとる証拠たい」
 
そういうことか。
 
麗は、いてもたってもいられなくなり、バットを下に置いて右ストレートを繰り出してみた。しかし、右足のつま先を捻っているという実感がない。
 
ふとライト側のベンチを見たら、いつの間にか三人はいなかった。拍子抜けした感もあったが、その三人が残した吸いがらを利用することを思いついた。

「右パンチば打つと同時に、軸足の爪先で煙草ば消す」
 
吸いがらを右つま先で踏み消しながら、右ストレートを打った。擦れる音とともに煙草の煙が消えた。
「今までとは違う、重たかパンチだ」と、麗は驚いた。
実際に、煙草を踏み消すことで意識が強くなるから、直に拳に体の力が伝わる感覚だった。これが狩谷の言っていた、拳に体重を乗せるということかと思った。

麗は、思わず嬉しくなった。
爪先を強く速く回転させることで、体の軸を中心に腰も充分に回転できることを実感できると、麗は無造作に転がっている煙草を次々と消しながら右ストレートを打ち続けた。
いきなり威圧する声が聞こえた。透明な空気に、渋い色が混じった。

「やっぱりここは、不良生徒の喫煙所のようやね」
 
いつの間にかライト側ベンチの入口には、渋い表情をした校長先生が仁王立ちしていることに気づいた。突然ふらりと現れた校長が、麗には黒い悪魔に見えた。煙草臭が残っているから、ごまかしは利かない。
昼休みの時間だから見回りに来たようだ。そういえばあの三人は、その空気を事前に察知したのだろうか。
 
吉本校長は、麗に近づきながら叱責した。
「駅伝で無期限処分を食らって我が校の名を汚し、今度は喫煙か。停学、いや退学も充分にあり得るな」
 
麗は、自分を慰めた三人の名前を出すわけには絶対いかなかった。自分だけ良い子になって責任を逃れようなんて……彼女は俯いていると、深田が駆け込んできた。
「校長先生、彼女は喫煙ばしてません」と必死に訴えかけるように説明した。
 
彼は麗の救世主になった。
それでも眉を吊り上げて聞いている校長の訝しげな表情は、裏を返せば麗が喫煙してないはずがないと疑っている何よりの証拠だった。せっかくの深田の誠意を信じない校長が、麗は悲しかった。
 
校長は、再び麗を見据えた。
「ともかく、次の授業で性根を叩き直してやるけんな」
 
麗は、困った表情を見せるしかなかった。
それにしてもタイミングが悪過ぎた。昼休みが終わると、校長の授業だったのだ。理不尽な無期限処分といい、ボクシングジムからの追放といい、喫煙の冤罪といい……とことんツイていなかった。