令息の愛情は、こじらせ女子を抱きしめる ー。
運命の人。
 優しく咲いた愛しい男(ひと)の笑顔は、死んだように空虚な私の心に、スッと温かな息吹を吹き込んだ。
 それは、凍てつく冬がようやく終わりを告げて間もなく春が訪れることを私に知らせ、永らく眠っていた彼への情熱を目覚めさせた ー。
 「華那・・・。」
 名前を呼ばれた瞬間。氷が溶け出すように、私の頬を透明な涙が伝っていった・・・。

 閉店間近のこの時間に店のスタッフは私しかおらず、私は彼の前で、はばかることなく止まらない涙を流し続けた。
 涙で濡れた私の頬に彼は、そっと手を伸ばして、その温かな指先で優しく拭ってくれた。
 そんな彼の姿に、彼が贈ってくれたダイヤモンドリングを目の前で外し、さよならも告げずに彼のもとを去って深く傷つけたことを私は酷く後悔した ー。

 「君と話がしたい。仕事が終わったら、時間もらえないかな・・・??」
 テオドールは、私の涙をぬぐった指先を頬から離すと、代わるように唇を動かした。
 どれくらいぶりだろう?彼と向かい合って、言葉を交わす時間は。
 
 彼と私は、地下にある落ち着いたカフェバーで話をすることになった。
 ・・・二人ともお酒は頼まなかった。
 席について、オーダーが通る間、私達は無言だった。そして、注文した品が運ばれてきた時、ようやく話を割る状況が無くなったことで彼は静かに切り出した。
 「華那、空港で君を見送った時。俺は君から『さよなら。』とは聞いていない。そして、俺が君にプロポーズした時、君は笑顔で『はい。』と、はっきりと返事をしてくれた。・・・今でも俺は、君と結婚したいと思っている。」
 テオドールは、無防備にテーブルへ置かれた私の手を強く握り、フランスでプロポーズしてくれた時の情熱そのままに、色褪せない私への想いを告げてくれた。
 さっき、彼の前で涙を流したばかりだというのに・・・。
 私は、もうずっと、テオドールの前で泣き顔しか見せていない。
 
 でも、この涙は、フランスで彼に見せた涙とは違う種類の涙 ー。
 心に留めておけないほどの気持ちが湧き上がると、それは涙となって無意識に流れ出す。
 
 「ごめん・・・。俺は、ずっと君を泣かせてばかりだ・・・。」
 私に、そう言った彼の顔を涙で歪んだ視界の中、それでもまっすぐに見た。
 「空港で見せた、あの涙・・・。君は、嘘が下手だから・・・。」
 テオドールは、私の頬を手のひらで包み込むと親指で涙を拭いながら、憂いを含んだ微笑みを浮かべた。その時、彼の瞳の奥に映る小さな光が微かに揺れた・・・。
 彼の瞳は、私の涙と共鳴するように密かに潤んでいた・・・。
 「早く、華那の笑顔を取り戻したい。だから・・・。」
 万感の思いで、心に描いた未来を見つめるテオドールの青く澄んだ瞳 ー。
 彼は、拳を握りしめて日本に来た決意と果すべき約束を語ってくれた。
 「俺が、華那を迎えに日本へ行くと言ったら、親父はこう言った。”どうしても彼女と結婚したいというのなら、この先、何があっても彼女を守るという覚悟を持て。もう、御曹司ではなく、お前自身で『sourire d'ange』を牽引していける力をつけろ。そのために、まずお前を日本支社の社長に抜擢する。新作のコレクションと新店舗の出店を成功させろ。”・・・って。親父に言われなくても、端からそうする。俺は必ず君を妻にして、一生守っていく・・・!」
 力強く、命が宿った眼差しと、大きく成長を遂げようとする彼の姿勢を目の当たりにして私は決めた ー。
 自分は彼にふさわしくないとか、彼のためにとか、いたずらにそんなことを言ったり考えたりするのは辞めた。
 ー 私は、この時。テオドールの想いと向き合うことと、自分の彼への想いに正直に生きることを選んだ。

 日本支社の社長に就任したテオドールは毎日、目の回るようなハードスケジュールをこなしていた。 
 フランスにいた頃彼は、忙しいながらも毎日連絡をくれた。だけど、日本に来てからは・・・。
 ー もうどれくらい私達は会っていないんだろう?私は、日付を確認しようと朝刊に目をやった。すると、週刊誌の広告が目に止まり、そこには、なんと・・・!
 ”『TOXIC』の、北村拓斗、熱愛発覚!!”の見出しが!!
 私は、いてもたっても居られず近くのコンビニまで行き早速、週刊誌を読み漁った。
 ー 巻頭の誌面に、あの夜の写真が大きく掲載されていた・・・。あの夜とは、酔って寝入ってしまった私を拓斗が自分の部屋に泊めた夜のこと。
 過ぎたことでさえ今更、蒸し返して迷惑をかけてしまうなんて・・・。事実、何もなくてもマンションの扉を開けて中に入る写真があればスキャンダルとして十分に成り立つ・・・。
 相手が一般人ということで私の顔は分からないように隠されていたがもう、これ以上拓斗に会うことはできない。
 何よりも、私にはテオドールがいるのだから・・・。
 私は、拓斗に本当に申し訳ないと思ったが、やはりこれ以上彼とプライベートで関わってはいけないと思い、以前から『TOXIC』のファンだと言っていた親友の亜香里にチケットを譲った。彼女は、ずっと片思いしていた同じ部署の先輩と最近付き合うことになり、彼氏と行く初『TOXIC』の、ライブだと言ってとても喜んでくれた。

 昨日、亜香里は彼氏と『TOXIC』のライブに行ったのかぁ・・・。土曜日だったし、お泊まりしたのかな・・・。
 私には、テオドールがいる。そう思いつつも、親友のラブラブぶりがちょっと羨ましい・・・。だって、昨日は土曜日だったけど、昨日どころじゃない。3週間近くテオドールに会っていない・・・。
 恋人のいる20代の女子がこんなに日照ってしまっていていいのだろうか・・・。すっかり干物気分で、私は一人で閉店作業をした。
 大きなため息を一つついて、裏口から外に出ると何やら怪しくうごめく黒い影が・・・。その影は、私の姿を見つけて近づいてきた ー。
 ・・・ヤダッ・・・!助けて・・・!

 「おいっ!なんで、ライブ来なかったんだよ・・・!!お前に渡した番号の席見ても、お前いなかったぞ!」
 その声を聞いて、私は気が抜けた。
 「え・・・!?」
 その声の持ち主は、紛れもなく拓斗だった。彼は、焦ったような口ぶりで早口で話し始めた。
 「週刊誌のことか??それとも・・・アイツか?元彼が日本に来たからか・・・??あの男だろ、お前の元彼。」
 拓斗は私にライブのチケットを渡しに店にやって来た時、テオドールの姿を見かけていた。
 「オレが店を出たのと入れ違いで入ってきた外国人の男。・・・でも、アイツとはもう別れてるんだろ!?」
 私が、拓斗の質問に応えようとした時、スマホの着信音が鳴った。着信画面にテオドールの名前 ー。着信が彼からだと気がついた拓斗は、私の答えを待たずして、こう言った。
 「週刊誌のこと。オレ、謝る気ないから。オレ、実際・・・、華那のことが好きだ・・・!!」
 ー 驚いた。今まで、拓斗は私に故郷の家族を重ね合わせていたから色々と親切にしてくれていると私は思い込んでいた。
 予想外の展開に呆然として無言のままの私を見て不安に駆られた拓斗は、有無を言わさず私を荒っぽく抱き寄せた。
 拓斗に抱きしめられながらも状況が飲み込めずにいた時、冷静ではっきりとした声が聞こえた。
 「離せ。・・・華那は俺のフィアンセだ。」
 私は、その声にハッとした。拓斗に抱きしめられながら、横目で声がした方を見ると・・・。
 そこには、拓斗を冷たく睨みつけ、怒りを必死で抑えつけている様子のテオドールが立っていた ー。
 そんな恋人の姿に私は、ようやく我に返り拓斗の胸を突き放して、テオドールのもとへ駆け寄った。
 「フィアンセって・・・。今更なに言ってんだよ!あんたもう華那とは別れてるんだろ!!」
 私が、テオドールの傍に行くと彼は、自分に大声を張り上げる拓斗など、まるでその場にいないかのように目もくれず、優しく私の肩を抱いた。そして、申し訳なさそうに言った・・・。
 「華那、待たせてしまってごめんね・・・。」
 そんなテオドールの言葉を受けて拓斗は諭すように私に言った。
 「華那!オレは好きな女を延々と待たせるようなことは絶対にしない・・・!なっ、華那。オレと一緒に居よう・・・!!」
 一向に引き下がらない拓斗にテオドールは、フィアンセのプライドゆえ、抑えつけていた感情をついに露わにした。
 「本来、誰と居るかは華那が決めることだ。と、言いたいところだが・・・、」
 テオドールの眼光が鋭く拓斗を貫いた。
 「お前に・・・、誰にも。華那は渡さない。」
 テオドールの覇気に圧倒されて黙った拓斗に背を向けて、いつもの穏やかな口調で彼は、私に言った。
 「行こう華那。」
 テオドールは、私を愛車の助手席に乗せると立ち尽くす拓斗に見向きもせず、強くアクセルを踏んだ ー。
 
 私は拓斗からの突然の告白に驚いたことよりも、テオドールに拓斗との仲を誤解される方がずっと怖かった。
 半ば混乱しながら、何とか誤解を解きたくて、私は取り繕うように言葉を並べた。
 「あの・・・っ!違うのっっ!さっきの人は・・・!」
 混乱している私とは対照的にテオドールは、全くもって冷静だった ー。
 ハンドルを右手で握り、左手は動揺して身振り手振りが大きくなっている私をなだめるように、私の手を優しく握った。
 「華那。大丈夫だよ。・・・俺は、君を信じてる。」
 先ほど拓斗に見せた表情とは対照的な柔和な彼の素顔 ー。
 怖がることは何もない。
 私は、テオドールに拓斗とのことを全て話した。
 拓斗とのことを話す中でテオドールは、自分と離れていた間、随分と私に寂しい思いをさせていたことを何よりも気にしていた・・・。

 私を乗せて彼が運転する車は、やがて対岸の夜景が見える夜の港へ。
 車から降りた私達は、手を繋いで暗闇の中に点滅する白い光を何気なく見ていた。港を漂う夜の風が繋いだ指先の間をすり抜けていく。  
 どことなく雪解けの気配を感じさせる風を全身に受けながら彼は言った。
「言い訳はしない。これからも、俺はきっと君を待たせてしまうだろう・・・。」
「うん・・・。」 
 私は、静かにテオドールの言葉を受け止めた。
 彼の横顔に私が見つけた目の下のクマは、慣れない日本での生活と、社長という重責を担うことがいかに骨の折れることかを物語っていた・・・。
 やがてテオドールは私の方へ視線を向けた。その時、私の表情が曇っていて心配していることが分かった彼は、努めてさりげない笑顔を作り静かに私を包んだ ー。
 向かい風が私の鼻先にテオドールの香りを運んで、彼の髪が微かに私の頬に触れた。
 私は、安堵感に包まれたが、それでも胸の奥には鉛のように重くて鈍い塊が沈んだ・・・。
 
 二人の未来を実現させるために一人で奮闘する彼を思うと辛い。
 彼を待ち続けるだけの自分は切ない ー。
 彼に守られて、ついていくだけの人生は心苦しい・・・。
 
 ー 共に歩む。
 初めてテオドールに出会った日、彼のデザインしたドレスの傍らに私の作ったブーケが寄り添っていた。
 思えば、その時から私達は共に歩み始めた・・・。  
 
 二人の未来のために今、私ができること。それは彼を支えられるように私自身が成長すること ー。
 私も、挑戦しなければ・・・!
 見えない絆を形に ー。
 私はフラワーアレンジメントのコンテストに自分の作品を出展することにした。

 お互いに目標を持つことにより、私達が共に過ごす時間は一段と少なくなった。
 互いに求め合う気持ちが強くなる一方で、不思議と会えないことに対する不安は無かった ー。
 別々の日々を過ごしていく中で、私達は同じ未来を築き上げている安心感があった・・・。

 気温が一番下がる夜明け前に、雪が降らなくなって随分たったある日。その報せは届いた・・・。


 ー 審査員特別賞 『佐伯華那』 ー 


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