臆病なうさぎは旦那さまと大空に飛躍する
臆病なうさぎは俺のもの side 恭介




 燈子が破談を口にした時、妙な高揚感が胸を満たした。

 幼い時分から、俺の伴侶は燈子だと決めていた。
 燈子は出会った時から大人しく、自分の感情をあまり表には出さない性質だった。蓮井のご両親は大らかで優しい人柄だが、夫婦で法律事務所を営んでおり、多くの顧客を抱えて多忙にしていた。
 燈子はそんな両親を気遣い、いつもどこか遠慮がちにしていた。

 七歳ではじめて母に手を引かれ、燈子の家を訪ねた。五歳の燈子ははにかんだ笑顔で挨拶こそしてみせたが、すぐに所在なさげに一人、居間の隅へ引っ込んでしまった。その背中は、どこか臆病なうさぎを思わせた。
 俺自身あまり面倒見のよい方ではないのだが、小学校に上がったばかりの俺は、少しばかり自分が大人になったような気でいた。だから年少の子の面倒を見てやろうと、その時ばかりはそんな使命感に突き動かされて燈子の元に向かった。
 燈子は色鉛筆を手に、スケッチブックに向かっていた。

「!! 上手い!」

 けれど燈子のスケッチブックを覗き込んだ俺は、自然と感嘆の声を上げていた。お世辞でもなんでもない、純粋に「上手い」と、そう思った。スケッチブックにはとりどりの色彩で動物達が描かれていた。
 その絵は、とても五歳の子供が描いたとは思えない出来栄えだった。

「あ、見ちゃいや」

 燈子はスケッチブックを覗き込む俺に気付くと、恥ずかしそうにスケッチブックを覆い隠してしまった。

「嫌ならもう見ないよ。俺は絵心ってまるでないから、上手に描けるのが羨ましいよ」

 スケッチブックの上に丸まる燈子の背中をトントンと叩く。
 燈子が顔を上げ、チラリと俺を窺い見た。その様は、やっぱり臆病なうさぎでも見ているみたいで、子供心にちょっと可愛いと思った。

「ほら、もう見ないから続きを描きなよ」
「……一緒に、描こう?」

 すると何を思ったか、燈子がまさかの誘いを持ちかけた。

「いや、だから俺は絵はからっきし……」

 キラキラと期待の篭った双眸が俺を射抜く。

「……よし、描こうか」
「はいっ!! どうぞこれを使って!?」

 燈子は満面の笑みでスケッチブックと色鉛筆を俺に差し出した。
 !! 

 ……その笑顔はちょっとじゃなく、物凄く可愛いと思った。






 けれど長ずるにつれて、燈子はますます内向的になった。

「事務所はゆくゆくは燈子さんが継がれるんでしょう?」

 俺の母が世間話の流れで、何気なく振った言葉。

「……いえ、ここだけの話、燈子は出来がいまひとつで……。弁護士はちょっと、難しいかも……」

 蓮井のおばさんは溜息と共に告げた。

「あら! 女の子だもの、そんなのは全然問題ないわ。それよりも事務所、継がないんだったら燈子さん、恭介のお嫁さんにどうかしら! 燈子さんが恭介のお嫁さんになってくれたら嬉しいわぁ~」
「まぁ、ふふふっ。それも素敵だわね……あら! このマカロン凄く美味しいわ」

 母達は好き勝手な事を言いながら笑っていた。

「良かったわ! これね、百貨店の催事でたまたま見つけた限定商品なのよ」

 この頃になれば俺達も幼い子供のままではなかった。思春期を迎えた俺と燈子は母達と同じ空間でソファに掛け、言葉少なに紅茶を啜っていた。

 当然母達の会話は、俺と燈子の耳にも筒抜けだった。
 語る母達に他意はなく、燈子を貶めるつもりなど更々ない。
 けれど俺は気付いていた。燈子は俯いていたけれど、膝の上で拳を握り、硬く唇を噛みしめていた。
 中学受験に破れ、公立中学への進学を目前に控える燈子に母達の言葉は、胸を抉る凶器にも等しいだろう。

「燈子、ほら。オレンジ、好きだろう?」

 俺は手土産に持ってきたマカロンの中から、綺麗なオレンジ色をしたそれをひとつ摘み上げて燈子に差し出した。

「……恭介君、ありがとう」

 燈子は膝の上で握り締めていた手を解くと、俺が差し出したマカロンを受け取った。触れた指先が、微かに震えていた。

 率直に言えば、燈子はあまり学業には秀でていない。小学、中学と連続して受験に破れ、蓮井のご両親と同じ学舎で学ぶ事が出来なかった。
 燈子が目指していたのは中高一貫が売りの進学校だ。内部進学が大多数の中で、燈子が高校受験で僅かな外部進学枠に収まる事は難しいと思えた。 

「燈子、人生を長い目で見ればきっと勉強が全てじゃない。公立校の方が自由だ。私学は結局、学業順位がものを言うから……」

 残酷だが、きっと中学受験で入学が叶っても、燈子は授業に付いて行くのに大変な苦労を伴っていた。
 実際、俺の通う中学でも幾人かが授業についていけずに置き去りの状況だ。

「ほら、絵を描く時間がなくなるぞ?」

 燈子は今も、ずっと絵を描いている。今はもう、燈子は居間では描かないから、俺が燈子の絵を目にする機会はない。
 幾度か見せてくれとせがんでみたが、燈子は絶対に首を縦に振らなかった。

「……そうだね。だけど、お父さんお母さんと同じ学校に、行きたかった。本当は事務所だって継ぎたい……でも私じゃ、きっと無理。私、将来何をしてるんだろ……」

 切ない燈子の心の吐露に、俺は言葉に詰まった。
 けれど燈子が将来を憂うなら、それを軽くしてやりたいと思った。 

「燈子、母さんが言った言葉じゃないが、燈子はきっといいお嫁さんになる。だから俺に、嫁げばいい。夫を支えて家庭を守る、な? 立派な仕事だろう?」

 カラカラに喉が渇いていた。
 冗談めかして告げた言葉は、限りなく真摯な俺の心。十四歳の俺が冗談めかしてでも、それを告げるのは生半可じゃない勇気だった。

「恭介君のばか……。そう言うのは簡単に言っちゃダメなんだから……」

 燈子は唇を尖らせた。だけどその頬が僅かに赤い気がするのは、きっと気のせいじゃなかった……。
 




 けれどそれ以降、俺と燈子が顔を合わせる機会はなかった。お互いに親に連れられて歩く年でもなくなった事と、俺が留学で日本を離れた事が大きな理由だ。
 それでも折々に、燈子の近況は母から聞かされて知っていた。

「燈子さんって、今時では珍しい大和なでしこだと思わない? 最近の若いお嬢さん達はもっとずっと、派手に暮らしているじゃない」
「……そうだね」

 長じても燈子に男の影はまるでなかった。燈子は家と勤め先の役場を往復して、あまり外出もしないという。
 ……きっと燈子は、今も絵を描いている。
 果たして燈子は、どれほどに美しい絵を描くのだろう?

「ねぇ恭介、貴方はどうなの? こっちではどなたともお付き合いしていないでしょう? もしかしてアメリカに懇意な女性でもいるの?」

 燈子との縁談の話は、折に触れて冗談交じりに上がっていた。
 とはいえ、母も父も燈子との縁談を強制するつもりは更々ないようだった。

「ははっ。唐突だね母さん、別にそんな人はいやしないよ」

 俺は米国の大学を卒業後、そのまま現地で就職した。
 四年目に米国MBAを取得して、父に呼び戻される形で日本に戻った。そうして父の会社に入社して二年目、今年からは役職付きで働いている。
 米国の大学で既に四年間学んでいたから、海外生活もMBAの取得も、それ自体は俺にとってなんら苦になるものではなかった。
 苦痛を感じるとすればそれは、燈子の成長を間近に見るのが叶わない事だけだった。

「……恭介、この際本気で燈子さんとの結婚を考えてみない? 貴方も三十歳が見えてきたでしょう」

 俺は今、二十八だ。母もいい時期だと、そう判断したようだった。
 母がはじめて、これまでの冗談交じりじゃなく、真剣そのものの目をして俺に尋ねた。

 ……ついに、時は満ちたのだ。

 ゆっくりと瞼を閉じる。
 燈子を俺の物にする事は、もうずっと前から決めていた。だけど燈子を手に入れる事に焦りはまるでなかった。
 それは燈子の性格によるところが大きい。押し過ぎれば、燈子は引いてしまう、そんな気がした。
 燈子には、きっと時間が武器になる。時が熟せば、自ずと燈子は俺の元に収まる。そんな確信にも似た思い。

「母さん、その話を進めてくれる?」

 ゆっくりと瞼を開く。視界に映る景色がこれまでとは違い、どこか眩しく感じた。

「! 本当に!? やっぱりやめた、なんてないわよね!?」

 ……俺に、燈子との結婚に異論などあるはずもない。

「いやだな、母さんが勧めたくせに。とにかく、この件は母さんに任せるよ」

 極力のさり気なさを装って母に告げた。
 けれど平静の仮面の下、身を焼き尽くすほどの熱い激情が巡っていた。

「そ、そうなんだけどね! 分かったわ! すぐに蓮井さんに電話してくるわ!」

 母の背中を見つめながら、歓喜に戦慄く拳を握り締めていた。

 ついに燈子が、俺の元に嫁いでくる。
 燈子が、俺のものになる!

 ……長かった。けれどこれも全て、目論見通りだ!



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