イミテーションラブ
きっかけ

「ねぇ智花、バイトしない?」

大学の友人、京香の紹介で、カフェの店員の仕事を紹介された。
シフトは融通がきくし、美味しい賄い付有りと言われて即決で決めた。
場所は表通りに面したオフィス街で、スーツを着た男性や、会社の制服を身に纏った女性が多い。
普段のんびりした学校近くのカフェとはまた違った雰囲気だった。
おかげでお昼時は12時になると、ハンパなく忙しい。ランチタイムがすぐ終わっても、コーヒーを飲みに来るお客さんも多いため、ひと息つく暇さえない。
シフトも連日続きで学校の課題でなかなか睡眠が取れなくなっていた。
おかげで寝不足が続いていて、突然頭がくらっとして眩暈のような感覚に襲われた。
しまったと思った時には遅くて、ガシャーンと割れる音がして、手に持っていたトレーからグラスが落ちた。
「申し訳ありません!」
グラスは割れて、そばにいたスーツの男性の裾を濡らしてしまった。
「お怪我はありませんでしたか?すぐにタオルをお持ちします…」
我に返ってすぐに割れたグラスを片付けて、相手に謝った。
罵声を覚悟したのに返ってきた声は落ち着いた優しい男性の声。
「大丈夫だから、怪我しなかった?」
私を気遣うように優しい声色でズボンの裾を軽く払って水滴を飛ばした。
「いえ、タオルをお持ちするのでお待ちください!」
すぐにタオルを持って行き、もう一度すみませんとお詫びする。
「本当に気にしなくてもいいから…」
そう言われて、やっと相手の顔を正面から見る事が出来た。
この店によくコーヒーを飲みに来てくれるお客さんだ。
常連さんで20代後半くらい。
スーツを着てるから会社員だと思う。
今日の私の失敗でこの店に来なくなったら困る相手だ。
「あの、すみませんでした!これからは気をつけますからまた来てください」
帰り際に彼に念押しするようにぺコリとお辞儀をしてそう言った。
「ああ」
彼の目元が優しく笑いかけて、その雰囲気で甘い空気がふんわり漂った。

素敵な人だなって、正直思った。

それからはたまにお店に来ると、コーヒーを飲んだり彼と時々目が合う度にお辞儀をするようになった。

他のお客様とは違う、少し特別な人。

お互いに声をかけ合ったりはしないけど、お店に来た時にペコッと頭を下げる関係。

ただそれだけなのだけど、私の記憶に残るには充分で、学生時代のバイトの失敗談。

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