幽霊と私の年の差恋愛
触れる




「やぁ、よく眠れたかい?」


朝目を覚ますと、必ずそう言って挑発的に口角を上げる男がそこにいる。

陽の光がアッシュの癖毛と瞳に反射し、キラキラと輝いて見える。


「んん……おはようございます……ふぁ……」


美波はまだ眠い目を擦り、あくび交じりに返事を返す。


「良いねぇ。その寝起きの顔。とーってもチャーミングだよ?」


そう言うと、ごく自然な動作で美波の頬に軽く口付けをしてくる。その部分に触れた感触はなく、ひんやりとした冷気を感じるだけだ。

初めのうちは一気に目が覚める思いだった美波も、それがかれこれ二週間も続けばリアクションは薄くなる。

もちろんそれは無反応を装うことが上手くなっただけであって、心臓は相変わらずう煩い音を立て始める。

その音は、日を追う事に煩さを増していく。

そんなリアクションが不満だったのか、その男、藤原真糸は子どものように頬を膨らませていた。


「もーう、最初の頃みたいに可愛い反応が見たいのになぁ」


いい歳して何をやっているんだ、と思うと同時に、美波に気を遣わせまいとする真糸の優しさが嬉しかった。


「んー……眠い」


一度伸びをして眠気を誘うベッドからなんとか抜け出すと、美波は部屋を出る。

本日は土曜日。普段ならば心ゆくまでベッドに潜っている美波だが、今日はこれから友人と会う約束がある。

同期の佐伯愛佳だ。

仕事に復帰してからも何度か食事に行っているが、休日に遊ぶのは久しぶりだった。ランチの予定なので、まだ時間に余裕がある。

洗顔や歯磨きを済ますと、美波は狭いキッチンに立って慣れた手つきでフライパンを温める。


「んー。美味しそうな匂い。僕も食べたいなぁ」


いつの間にか後ろに立っていた真糸が、美波の肩越しに手元を覗き込んだ。そこには食欲をそそる音と香りを振りまく、ベーコンエッグが出来上がっていた。


(向から干渉はできないのに、こっちからの匂いは分かるんだ……なんか不思議……)


働かない頭でどういう原理なのか考えてみるも、美波の頭では例え目が覚めたとて答えにはたどり着かなそうだ。


「一緒に食べますか?」


合図を鳴らしたトースターから食パンを取り出してバターを塗りながら、美波はわざとにっこり笑ってそう言った。

もちろん、真糸には実態がないので食べることが出来なければ、食べる必要もない。


「んもう、美波ちゃんたら連れないなぁ」


続いて適当にちぎったレタスにトマトをトッピングしたシンプルなサラダと、ティーバッグで淹れた紅茶をトレイに乗せると、再び部屋に戻りテーブルに着く。


「いただきまーす」


朝食を食べ始めたところで、美波はようやく目が覚めてきた。


(それにしても……)


壁掛け時計を見るふりをして、ちらりと真糸を見る。

色々あって幽霊と同居するという不思議な生活になった今。それが美波の日常になりつつある。

彼は終始いたずらっ子のような笑みを浮かべながら、美波が食べる様子をじっと見つめていた。


「なぁに? 僕の顔に何か付いてる?」


盗み見たつもりだったのに、すぐに目が合ってしまった。住んだ湖のように綺麗な瞳に見つめられ、顔に熱が登るのが分かる。


(真糸さんに見つめられるのだけは、未だに恥ずかしいな……)


頬にキスされることを考えれば、何でもないことのようなのにーーー。そう思っても、顔の火照りはどうにもならない。

「ふふ……やぁっぱり美波ちゃんは可愛いなぁ。……食べちゃいたいくらいに」


そう言うと、何を思ったのか真糸はテーブルからふわりと身を乗り出し、美波の顎に自身の人差し指をかけてーーー。



くいっと顎をすくい上げ、唇がぶつかりそうになる。




「えっ……」




触れている。



今までは、触れる感覚などなく、冷気を感じるだけだった。

しかし今、美波はしっかりと、氷のように冷たい指に顎を持ち上げられている感覚がある。


「えっ。えっ?」


「……」


混乱する美波を前に、真糸もまた驚いたように目を見開いていた。こんな表情の真糸は珍しい。

しかし次第に何かを考えるように真剣な表情となり、今度は突如として不敵な笑みを浮かべる。


「ふーん? これはキスしても良いってこと、なのかな?」


いうが早いか、すぐそばにあった顔をさらに近付けて唇を奪おうとする。

しかしその瞬間、すっと顎に触れていた感覚はなくなり、唇にも冷気を感じただけだった。

目の前にあるであろう彼の顔を見ることが出来なくて、美波はぎゅっと目を瞑った。


「なーんだ、残念。せっかく君に触れられるようになったと思ったのに、一瞬で終わりかぁ」


心底残念そうにため息を吐きながら離れていく真糸の指が、丸眼鏡の下に伸びた。美波は目を白黒させながら取り落としたトーストを拾う。


「い、い、今の、どうやったんですかっ?」


色々聞きたいことはあるが、まず一番の疑問はそれだった。

今まで真糸にはハグや頬にキスなど何度もセクハラじみたスキンシップを取られているが、実際に触れ合えたことはない。

お互い、全てはホログラムに触れようとしているようなものだった。


「うーん。それが僕にもさっぱり。何か指先が生きてる時みたいに生々しく感じて、そうしたら触れることが出来たんだよねぇ……」


当の本人も何が起こったのか分からないらしく、自分の手を見つめながら開いて閉じてを繰り返している。

しかしそうしていても埒が明かない。唸りながら眉間を揉むと、気を取り直すように手を叩いた。


「よしっ! 美波ちゃん、もう一回ちゅーしてみよ?」


「え、ちょっと待っ」


断る間もなく、真糸が覆いかぶさる。

そして今度は、後頭部へと真糸の大きな手のひらが回されるもののーーー。


「……駄目だね、なーんの手応えもない」


「……」


美波は顔を真っ赤にしたまま固まっていた。そんな美波の様子をいいことに、真糸は何度もキスにチャレンジしようとしている。

何度も、何度も。角度を変え、位置を変え、それは繰り返された。さすがの美波も我に返り、狭い室内で真糸から逃げるように距離を取る。


「もうっ! 真糸さんちょっとタイム! いくらなんでもひどいですっ!」


机を中心に何周か追いかけっこをしたところで、美波はぜぇぜぇと呼吸をしながら真糸に意義を申し立てた。


「ええ〜。良いじゃーん、減るもんじゃないし〜」


顔を真っ赤にしてぷりぷり怒っている美波に、子どものように唇を尖らせて不満げな顔をする真糸。


「減るとか減らないとかじゃないんですよ! したいかしたくないかの問題なんです!」


「いやいや、必要か否かの問題じゃない?」


拒否の言葉を突きつけるも、真糸は意に返さない。

それどころか、「このキスは必要だからするのであって、性的な意味はないから安心して」などと失礼なことを言う始末。

美波はわなわなと拳を震わせ、顔を真っ赤にしている。


「そりゃあ美波ちゃんとキスできるのが嬉しくないわけじゃないけどね? この事象が偶然起こったのかどうかは、同じ条件下で数回実証実験をしてみないといけないわけでーーー……」


申し訳程度にフォローを入れるも、真糸の中では完全に学者としてのスイッチが入っているのが丸分かりだ。


(私ばっかりドキドキして……馬鹿みたい)


何だか急速にバカバカしくなり、美波はため息をついてベッドに寝転んだ。


「もう分かりましたから……思う存分、実験してください……。まったくもう〜……」


出かけるまでにはまだ時間がある。

何度も迫ってくる顔を見ないように目をしっかり瞑ったまま、美波は今日どんな服を着ていこうかということに、無理矢理思考を向けた。


















「真糸さん、今何時ですかっ?」


鏡の前に立ち、美波はやっと決まった服に袖を通しながら尋ねる。


「うーん? 十時半を回ったとこ〜」


こちらに背を向けている真糸ののんびりとした返事とは対照的に、美波は慌てて着替えを終える。

そしてまるで背中に目が付いているかのように、着替えが終わったタイミングでこちらに振り向く真糸。


「ん〜最高に可愛いねぇ? やっぱり仕事の時とは雰囲気も違う」


「そんな場合じゃないです! もう、何で起こしてくれなかったんですかっ!?」


悪態をつきながらも、メイクとヘアセットを手早く済ませてバッグを掴む。

真糸は相変わらず、飄々とした表情を崩さない。


「だーって、まさかキスされながら二度寝しちゃうとは思わなかったんだもん。おっさん、ちょっと傷付く〜」


大袈裟に悲しそうな顔をする真糸に構わず、戸締りを確認してパンプスを引っ掛ける。アパートの鍵をかけると、錆び付いた外階段を一段飛ばして駆け下りる。


「そんなに急ぐと危ないよ〜」


のんびりと浮遊しながら着いてくる真糸が少しだけ羨ましい。


(私ってば……まさかあのまま寝ちゃうなんて……)


真糸の言う通りだ。まさかキスされながら寝るなんて自分の神経を疑った。おかげで愛佳との待ち合わせ時間に遅れてしまいそうだ。












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