幽霊と私の年の差恋愛




「ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。その上お休みまで頂きありがとうございました」


平社員よりも少しだけ座り心地の良さそうなオフィスチェアに凭れている部長に、美波はなるべく心を無に、しかし申し訳なさそうな雰囲気を演出しながら頭を下げた。


「安西君ね、駄目だよ早まっちゃ。どうしちゃったの? もしかして彼氏に振られた?」


にやにやと下品に笑う脂ぎった肉まんのような顔を見ないように、美波はただ無言で頭を下げ続ける。


(振られたんじゃなくて、振ったんだけど)


一応、心の中で弁明もしておく。

そんなことは意に介さないかのように、肉まん部長は目の前にある美波の髪を遠慮なく触る。


「いつもは綺麗に巻いてるのに、今日は決まってないじゃないか。ああ、そうか手首を痛めているんだね、可哀想に。仕事は出来るかね?」


「はい。もう大分痛みは引いたので」


ブラウスの袖から覗く包帯に気付いた部長が手首に触れる前に、美波はさり気なくそれを避ける。


「それに、少し痩せたんじゃない? おっぱいだけが取り柄なんだからさぁ、駄目だよそれ以上痩せちゃあ」


はぁ、と美波は曖昧に返事を返す。


「じゃあさっそく、君の淹れた美味しいお茶を頼もうかな。あ、他の社員には急病ってことにしておいたよ」


(またお茶汲みか……)


うんざりした気持ちは飲み込み、短く礼だけ述べて美波は給湯室へと向かう。

狭い給湯室に入ると、美波は深くため息をついた。


「あの部長、今時女性社員にお茶汲みを頼むなんて、時代錯誤も甚だしくなぁい?」


一部始終を見ていた真糸は、やや不機嫌そうに宣う。


「しかもさ、彼氏がどうとか聞いたり、髪に触ったり、体型のこととか……まったく油断も隙もない。完全にセクハラだよね、あれ」


普段はわりとテンション高めで、どちらかと言えばセクハラめいた発言をしないこともない真糸が、珍しく真顔で文句を言っている。

その事が意外で、美波は思わず目を丸くして手を止めた。


「へぇ……。なんか意外。真糸さんらしくないような……」


「え、美波ちゃんひどくない? それどういう意味〜?」


腑に落ちないという表情の真糸に、美波は思わずくすりと笑みをこぼす。


(そういえば真糸さんも、確かにちょっとセクハラめいたことするけど……嫌だと思ったこと、ないかも)


これが『ただしイケメンに限る』というやつだろうか? などと考え、また笑いがこみ上げる。


「ふふ、すみません。真糸さんは一見ちゃらちゃらしてそうだけど、実は真面目ですもんね?」


「実はって何かなぁ? 僕はいつだって紳士的だろう?」


退院後は、ゴールデンウィークが重なったこともあり、有給と合わせて一週間の休暇となった。その間、美波はほとんどの時間を部屋に引きこもって過ごしていた。

最初は真糸への申し訳なさや死にきれなかったことへの不甲斐なさ、改めて感じた両親の冷たさなど、暗くてどうしようもない感情に塞ぎ込んでいて何もやる気が起きなかった。

しかし、そんな美波の話し相手をして、笑わせてくれたのは他でもない真糸だった。

このように冗談めかした会話をしても、真糸への気負いのようなものは随分小さくなってしまった。


(良いのかな……。私、真糸さんにこんな態度で……)


心ではそう思うものの、真糸との軽やかな会話はとても楽しい。彼の知的さもまた、美波に新鮮な驚きを与えてくれた。

まだ知り合って二週間だと言うのに、真糸の気さくな性格が美波の凝り固まった心身を解していくようだった。


「ふむ、そうだね。それじゃあ僕が紳士である証拠に、正しく女性に触れるマナーを講義しようか?」


その言葉に我に帰った時には、身を屈めた真糸の端正な顔がすぐ目の前にあった。

アッシュで癖のある髪と、同色の瞳。すっと通った鼻筋と、弧を描く薄い唇。白い肌は物理的にも透き通っている。


(綺麗……)


目を奪われて固まってる間に、美波の身体は壁と真糸に挟まれていた。


「まず、髪の触り方はこうだ。うなじに指を差し入れて、そのまま毛先へ」


首筋辺りに真糸の手が伸び、美波はその冷たさにぞくりと肌を粟立てる。実際に触れ合えるわけではないのに、その感覚が妙にリアルだ。


「反対の手で今度は手首を。優しく包み込むようにね?」


湯呑みを持ったまま胸元で縮めていた手にも、真糸の指が優しく触れる。


「ひゃっ……」


飛び降りた時に痛めた場所が、やはりひんやりとした。思わず漏れた悲鳴に、真糸が笑みを深くする。


「そのまま……ゆっくりと顔を近づける」


そっと瞼を伏せた真糸の顔が、だんだんと近付いてくる。美波はその甘い表情に釘付けになり、思考も蕩けていく。


(男の人なのに……なんて、色っぽいんだろう……)


あと少しで唇が触れ合うーーー。

他人事のようにそう思った時、ふっと真糸が美波から離れた。


「ねっ、紳士的だったでしょ?」


普段の真糸だ。その顔は先程の甘いそれではなく、にやりとイタズラに成功した子どものような表情を浮かべていた。


(からかわれたっ……!?)


美波は一気に思考がクリアになり、急速に顔が熱くなる。


(どうせ私は、真糸さんから見たら子どもだしっ……)


よく分からない感情が心に立ち込め、美波は目の前に立っている真糸を突き抜ける。そして準備していた急須から湯のみにお湯を注ぐ。


「わわっ、僕を突っ切るのやめてって言ったじゃなぁい。結構心臓に悪いのよ」


「もう止まってますけどね、その心臓」


「わぁお。言うようになったねぇ。何怒ってるの〜?」


にやにやする真糸を無視して、美波は給湯室をあとにする。そのまま部長席まで行ってお茶を給仕すると、ようやく自分のデスクに戻ることが出来た。


「美波」


自席でため息を吐いていると、隣のデスクから控えめに声をかけられた。


「愛佳……」


美波もまた、相手の名前を呼ぶ。声を掛けてきたのは同期の佐伯愛佳。入社当時から意気投合し、デスクが隣同士なのもあって社内では一番仲がいい。

ミディアムの黒髪が良く似合う、清楚な印象の女性だ。


「もう、心配したんだからね? 全然連絡も寄越さないんだから」


愛佳は形の良い眉をはの字にして、上目遣いを寄越す。


「ごめん、なかなか体調が優れなくて……」


変に心配されたくない気持ちもあり、愛佳を含めた友人達には体調を崩した、とだけ伝えてあった。


「二週間も治らないなんて、相当辛かったでしょ? そういう時はもっと頼ってって言ってるのに。あっ、そういえば部長、また美波にセクハラしてたでしょ? ちゃんと言った方が良いよ!」


今度は怒ったような表情を見せる愛佳。彼女は表情豊かで、そのくるくると変化する様子は見ていて飽きない。


「ねぇ、元気になったなら、今夜ご飯でも行かない? 良いお店見つけたんだよね〜」


そう言って見せられたスマホの画面には、女子が喜びそうなお洒落なレストランの写真が映し出されている。

普段なら二つ返事で頷いていたが、美波は苦笑して首を横に振った。


「ごめん、まだ本調子じゃなくて……。この埋め合わせは、また今度! ね?」


両手を合わせて、お願いのポーズを取る。愛佳はむぅっと頬を膨らませたが、渋々了承してくれた。


「佐伯さーん。ちょっと来てくれる?」


「はーい!」


少し離れたところから上司に声をかけられ、愛佳は返事をしながら席を立つ。


「もう、しょうがないなぁ。ま、体調悪いなら仕方ないか。また今度。絶対よ?」


念を押しながら上司の元に駆けていく愛佳の後ろ姿を見つめ、美波はここのところ癖になりつつあるため息を一つ吐く。


(愛佳、キラキラしてるなぁ)


そこまで仕事が出来るわけでもないが、持ち前の愛嬌で周りから愛されている愛佳。

方や、特に何かあったわけではないが、何故か自暴自棄になり自殺未遂をした自分。


(んん……何も無かったわけじゃないけど……)


ふと、自分が何故命を絶とうとしたのか、心当たりに思いを馳せる。

思い浮かぶのは、耳にいくつもピアスを開けた、首筋に蛇の刺青を入れた男。


「なーに考えてるの?」


ひやりと、肩に冷気を感じた。


「別に……何も……」


かけられた問いに、美波はそれが不思議な独り言になることも忘れてそう答えた。


「ふむ……それにしても、愛佳ちゃん? さすが美波ちゃんのお友達だけあって可愛いねぇ。なぁんかおっさん気になっちゃう」


「だ、駄目ですよっ」


思わず大きな声が漏れ、美波は咳払いを一つしてしてそれを誤魔化す。

あとは目の前の仕事に集中し、勤務が終わるまで真糸の戯言を一切無視することに決めた。










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