絡んだ糸 〜真夜中の電話〜

 僕が目覚めると、彼女はもう起きていて、小さなキッチンで料理をしていた。小さなコンロで湯が沸いていて、彼女が紅茶を煎れる。
 シンプルなマグカップに入った僕のための紅茶が窓辺のテーブルに置かれる。
 彼女は寝ぼけ眼の僕をみて頬を赤らめ、目を逸らした。夕べ、あれほど愛し合ったのに、朝日の中の自分の裸体が、なんとなく恥ずかしくて、僕は布団を胸元まで引き上げる。

 彼女はキッチンで料理をしながら、立ったまま紅茶を飲んでいる。
 一人でも運べそうな小さな冷蔵庫の上に、おもちゃみたいな炊飯器。1つしかないシングルベッド。一人暮らしの彼女の部屋。

 咲さんの歌う鼻歌。いつもの声より少し高くて可愛らしい声。誰もいない実験室で、時々歌っているのを僕だけが知っている。でも今朝の曲は少し違う。明るいメロディ。心地よいリズム。こんな歌声で毎朝目覚められたなら。

 朝日の射す窓辺に置かれた小さなテーブル。その上に2人分の白飯に味噌汁、卵焼き、青菜。純和風の朝食が、新婚家庭みたいでくすぐったい。けれどそれは、ままごとに過ぎなくて。

 咲さんはいつまでこうしているつもり?こんな朝を迎える度、僕は、貴女の全てが既に僕のものだと、勘違いしてしまいそうになる。いつか咲さんが、僕のものになる日は、本当に来ないのだろうか。それとも、そんなことを考えている僕のほうが変なのだろうか。

 ふと、疑問が湧く。海外へ単身赴任中のご主人が帰国した時も、夕べ僕とそうしたように、この狭いベッドで2人抱き合って眠るのだろうか。こうやって、鼻歌を歌いながら朝食をつくるのだろうか。自虐的な想像はどういうわけか現実感を伴わない。

 彼女の夫の顔を見たのは一度だけ。彼女達の結婚披露宴会場だった。僕はその男が咲さんの夫だとはどうしても思えなくて、僕の方がずっと彼女にふさわしいような気がして、まるで出来の悪い絵画かなにかを眺めているような気分で、黙々と目の前の料理を食べていた。目の前のこの人は、本当に人妻なのだろうか。僕の恋人ではなくて?

 柔らかな朝日の中で、貴女が優しく微笑む。僕の箸が貴女の作った料理をつまみ、僕がそれを口に入れるのを、貴女は瞳をキラキラさせて、ドキドキしながら見つめている。僕が美味しいと言うと、安心したように微笑んで、はにかんで頬を染める。この何より幸せな瞬間が、偽物だなんて。

 急須から一旦湯のみに注がれる白湯。茶葉を入れた急須に白湯を戻し入れて、お茶がでるのを待ちながら、朝食の食器をテーブルから片付ける貴女。わずかな期待を込めながら僕は尋ねた。
「今日の予定は?」

 それが合図だったかのように、彼女の瞳は揺れ始める。
「仕事。かな。」少しの間のあと彼女は答えた。今日は土曜なのに。。

 それは明日じゃだめなの?僕はまだ帰りたくないんだけど。心の中でつぶやいて、僕は仮面を被りなおす。クラクラと目眩のような虚脱感を感じながら、やっとの思いでうそぶく。

「だったら僕はそろそろ帰りますね。」
 色濃く出た筈の玉露は、ほとんど味がしなかった。

「そうね。自分の部屋で少し寝たら?ここじゃ寝た気がしないでしょう。」
 貴女は僕と2人では寝た気がしないんですか?

 彼女のひと言ひと言に、胸がざわざわして、息苦しくなって行く。こんな思いをするくらいなら、早々に立ち去れば良いのに。一秒でも長く貴女の傍にいたい気持ちと、早く帰ったほうが良いという気持ちが鬩ぎ合って、僕の心はちぎれそうになる。

 僕がお茶を飲み終わると、彼女は立ち上がり、食器を洗い始めた。僕は自分の身支度を整えて、無言のままドアを出る。
 彼女が手を止めて僕を見送る事はない。声をかけた事もあったけれど、彼女は僕に視線さえ向けなかった。まるで僕の姿が見えていないかのように、罪の証拠を消すかのように、食器を洗いつづけた。

 マンションの廊下を歩きながら、僕の胸の中は彼女への不満と後悔で吹きこぼれそうになる。僕との一夜をなかったことにする彼女。寂しい独り寝の夜に、添い寝する男を呼んだだけで、料金代わりの朝食を出したらそれで終わり。お互い割り切った、その場限りの、それが僕らの関係。月曜の朝、会社で顔を合わせるのは、ただの同僚の咲さんだ。

 いや違う。「帰らないで」と貴女が僕にすがりついてしまわないように、僕が貴女を抱き締めてしまわないように、虚しい夢に酔ったまま、2人が現実を見失ってしまわないように、貴女は僕を無視して、心を閉ざして、黙々と皿を洗うのだ。僕にだって分かっている。分かってはいるのだけれど。

 バイクを押してマンションを出ると、朝というには高くなった陽射しが僕の姿を世界に晒す。人妻を抱いた間男の、虚しく惨めな朝を。

 僕はいったい何を間違えてしまったんだろう。貴女は何を間違えたのか。

しあわせになって欲しいと、あの日、僕は貴女に言った。
本当は分かっていたのに。こうなってしまうことを。
素直に言えば良かったのだ。結婚しないで欲しいと。

何年前になるだろう。
貴女に初めて会ったのは、まだ肌寒い春の夜だった。
間抜けな僕は貴女に尋ねた。
「彼氏とか、いるんですか?」

尋ねなければよかったのだ。
何も聞かずに、ただ告げたらよかったのだ。
「貴女に恋をしました」と。
あなたはどんな顔をしただろう。

絡んでしまった糸は、引けば引くほどに固い結び目になって、
無理矢理引けば張りつめて、、もうすぐちぎれる。

いったいいつまで、僕は貴女の部屋へ通うのだろう。
いったいいつまで、貴女は僕に電話をかけるのだろう。

いったいいつまで。
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