料理研究家の婚約レッスン

再訪

 半日のうちに二度も訪ねてきた梓を、碧惟は意外にもすんなり部屋へと招き入れた。

「これ?」

 今朝テーブル代わりに使った調理台の上には、梓の名刺入れが載っている。

「これです! 本当にすみません!」

 真っ青な顔で、名刺入れを引ったくるように取り戻した梓を、碧惟は冷めた顔で見おろした。

「本当に申し訳ありませんでした!」

 他に言う言葉も思い浮かばず、そればかりを繰り返していると、碧惟が口を挟んだ。

「純朴そうに見えて、案外せこいんだな」

「え?」

「忘れてったの、わざとなんだろ? 見え透いた手だ」

「は?」

 手元に戻った名刺入れと碧惟を交互に見比べる。冷ややかな視線にさらされて、梓はようやくその理由を悟った。

「そんな! わざとじゃないです、違います!」

「それなら、おとなしく宅配を待っていれば良かっただろう。都内なら、バイク便ですぐに着く」

「それは……」

 反論の余地もない。梓は覚悟を決めた。

「送ってくださるとおっしゃったのに、ご好意をお断りして申し訳ありませんでした。受け取りに来させてくださったことに感謝しています。忘れ物をしたことは、わざとじゃありませんが、先生にもう一度話を聞いていただきたかったのは事実です」

 碧惟は、梓の言うことを端から信じていない様子だった。

 きっと有名人には、姑息な手段を使ってでも近づこうとする人間がいるのだろう。初対面で、碧惟の意に染まない提案しかできなかった梓は、信用に値しなかったのだ。

 それは、仕方ないと諦めよう。

 今、重要なのは企画のことだ。どうにかして碧惟を、翻意させなければならない。

「またとない機会ですから、遠慮なく言わせていただきます。さっきの企画、変更させてください」

「へぇ。この短時間に考え直したんだ?」

 碧惟が、アイランドキッチンの脇にあったバースツールに腰かけた。

 長い脚が、ゆったりと組まれる。片肘をキッチンテーブルにつく姿は、リラックスしていて、そのまま雑誌の表紙を飾れるような端整さだった。

 からかうような表情をしているが、それでも目に麗しい碧惟が、梓の言葉をじっと待っている。

(これだ! きっとファンは、この瞬間を待っているんだ……!)

 弥生の言った言葉が、今になってストンと落ちた。

 碧惟のテレビを、寝る間際のひとときの楽しみにしている女性たちは、自分にだけ注目してくれている碧惟のこの視線を欲しがるだろう。

(きっと、買ってくれる!)

「DVDと書籍の同時発売は、変えません。テレビで先生のファンになった人たちは、本だけじゃ物足りないんです。先生が動く姿に魅了されているんです。だから、どうしても動画が必要です。先生が、テキパキと調理するのを見ることに、癒やしを得ているんです」

「調理を見ることに癒やし?」

 首をひねる碧惟に、自信を持ってうなずく。弥生から、心のこもった感想を聞いたばかりだ。

「先生の淀みない動きは、見ているだけで癒やされます。日頃、ままならないものに囲まれているわたしたちは、それを見ていると、自分の心の中まで整理されたような気になるんです」

 今まで言われたことのない感想だったのか、碧惟は首をかしげながらも、梓を止めようとはしなかった。

「それから、初心者向けであることも変えません。先生が今まで出してきた本は、中級者以上に向けたものでしたが、先生のファンには初心者もたくさんいるからです。むしろ、テレビの視聴者や若いファンの大半は、初心者と言ってもいいはず。

 それに、今までと同じことをしていては、売り上げは増えません。これまで先生の本を買わなかった人たちに買ってもらうには、新しいことをするしかないんです」

「別に無理して顧客を広げることもないけどな」

「そんなふうに考えていると、先生のファンは減る一方ですよ。ただでさえ、みんな忙しくて、毎日料理するような人は少なくなっているんです。料理をしない人ばかりの世の中になったら、先生がいくら新しい料理や調理法を考えたところで、誰も見向きもしなくなってしまいます」

 これも弥生の受け売りだったが、碧惟には感じるところがあったようだ。押し黙ったのを隙に、梓は声を張り上げる。

「最後に! 恋人向けというのは、変更しようと思います」

 碧惟が、ピクリと顔を上げた。その顔を真っすぐ見て、言い放つ。

「恋人じゃなくて、結婚してください!」

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