生け贄の踊り子は不遇の皇子に舞いを捧ぐ

5、神殿、そして街の外へ

 目の前で緋色のマントがひるがえる。

 ユノはその襞(ひだ)だけを追って懸命に歩いていた。
 人ごみはつらくない。けれど成人した男の足と成長途中の少女の足では速度が違う。しかも人々は青年の出で立ちに驚いて道を空けるもののすぐに隙間を埋めてしまって、あとに続くユノのことなど眼中にない。
 青年の従者なのだろう、額に茶色の組紐を巻いた白いチュニックの若者がユノの背後にぴったりとついてきていて、触れてはこないものの時折体を近づけて早く行けと急きたてる。ユノは走らなくてはならなくなった。

 息を切らしながらユノの不安は大きくなっていった。雑多な下町を抜けて戸建住宅(ドムス)の並ぶ街並みに出た。貴族に買われたのだから当たり前といえば当たり前だけど、きれいな街並みはユノを萎縮させた。こんな美しい街並みに住む貴族様に仕えられるのだろうかと不安を通り越して恐ろしくなる。
 娼婦見習のユノを買い取ってどうしようというのか。家内奴隷ならそうなるべく仕込まれた奴隷がいくらでも売られているだろうに。

 そんなことを考えていたら、急に視界が明るくなった。建物が切れた先には、セレンティア地区の市場なんて比較にならない大きな広場が広がっている。
 巨石を隙間なく敷き詰めた地面。道行く人は誰もが白か染色された上等な衣服を身に着けている。下層市民や奴隷がまとうことのない外衣(トーガ)まとう、見るからに身分の高い人もいる。

 広場の周囲には階層建てでもないのに見上げなくてはならないほど大きな建物が並んでいた。いつの間にここまで来てしまったんだろう。ここは下町の奴隷にはおいそれと踏み入れられない場所、公共広場(フォルム)だった。
 臆して足が動かなくなる。と、背中を突かれた。従者がついて行けと促しているのだった。前を歩く青年はどんどん歩いていってしまう。ユノは震える足を懸命に踏み出した。

 青年はまっすぐ進む。ユノは向かう先にそびえ立つ建物に圧倒されてしまった。装飾彫りのなされた太い石柱に石の屋根が支えられている。その屋根の側面には太陽と鷹、そして神の姿が浮き彫りにされている。ヌマ・ルクソーヌ神殿、帝国守護神の一翼、そして首都ルクソンナッソス守護神でもある力と太陽の男神ヌマの主神殿だった。


 動かなくなってしまったユノを、従者が腕を取って引きずって神殿に入った。

 中に入ってすぐ、供物を捧げる祭壇がある。今日も人々が列をなして食物や工芸品などを捧げて祈っている。
 青年はためらうことなく祭壇の脇の通路に入っていった。磨かれた大理石の通路を少し歩いて、並んでいる白い扉の一つに入っていく。

 部屋の中には三人の男がいた。背もたれのある大きな椅子に座っていた三人は、部屋の中に入った青年を立ち上がって迎える。
「おお、みつかりましたか」
 ここにきてようやく振り返った青年は、ユノに道を空けて男たちの前を指差した。
 ユノが指差されたところにおずおずと立つと、目の前に並んだ三人の男は無遠慮にユノを眺めた。

 三人のうちの一人、青年と同じく緋色のマントを身につけた男がユノの右腕を乱暴に持ち上げる。
「奴隷ですか」
 ユノはびくっと体を震わせた。たった一言なのにぞっとするくらいの侮蔑を感じた。

 男は放り出すようにユノの腕を離し一歩下がって距離を置く。
「臭いますな。まずは風呂に入れないと」
 かっとしてユノは男を睨みつけた。ニカレテに言われてたから身綺麗には気を使っている。臭うはずがない。

 男を睨みつけたユノと男の視線がからんだ。男の目に殺気が走る。
 まずいと思ったときにはユノは頬に痛みを感じ床に転がっていた。全身を床にしたたか打ちつけて目が回る。

「何をされる、クラッスス殿!」
 ユノをここにつれてきた青年が抗議の声をあげた。クラッススと呼ばれた男は落ち着いた声で答えた。
「身分不相応な目でわたしを見るからです。どこで手に入れてきたかは知りませんが、しつけのなってない奴隷ですね。今後お気をつけなさるといい。お持ちになる奴隷の品位がなっていないと貴方の品格が疑われかねませんよ? 」
 セリウスはぐっと言葉を詰まらせる。

 ユノはそんなやりとりを頭の隅っこで聞きながら、しくじったことを悔やんだ。
 今までは運がよかっただけなのだ。自由を許してくれる主人に養われ、馴染みの露店商人にはかわいがってもらってお使いの対価に踊らせてもらえた。
 普通なら奴隷の言葉なんて聞いてもらえない。奴隷というだけで同世代の帝国人にいじめられた。お使いの代金を巻き上げられ、取り返そうとして暴力に遭ったこともある。ここ最近差別に遭うことがなかったからすっかり忘れていた。
 一番忘れてはならないことだったのに。

「立て」
 冷たい声が振ってきた。ユノはのろのろと起き上がる。いきなり殴られて反発の思いはあるけれど、堪えようとぎゅっと目をつむる。
 ──いいかい、お貴族様には逆らっちゃならないよ。反抗的な態度も取るんじゃない。そんなことをすればもっとひどい仕置きをされるからね。奴隷をむやみに殺しちゃならないって法律はあるけど、そんなのあってないようなもんさ。ひどい仕置きで殺しちまっても、事故の一言で片付けられちまう。貴族に買われていったときのためによく覚えておおき。殺されたくなきゃ黙って何でも言うことを聞くんだよ。あたしがつらかったときはこう唱えてたもんさ。あたしは人形、主人の命令で笑いも泣きもする、上等な人形なんだってさ。

 そうだ。あたしは人形。貴族に買い取られたからには人形になったんだ。

 立ち上がったユノは、貴族の目をまっすぐ見返してはならないというニカレテの教え通りに、視線を下に落とした。
「そう。それでいいんだ」
 クラッススと呼ばれた男は嫌味ったらしい口調で言うと、大声で隣室に声をかけた。
 扉一つでつながった隣室から、四人の女たちが入ってくる。クラッススの指示を聞いて女たちはユノを連れ出し神殿奥へ連れて行った。そこでユノを風呂に入れ、真っ白いトゥニカを着せる。その上に青色に染め上げられた外衣(トーガ)を巻きつけ、背中を覆う薄茶の髪を高く結い上げた。まるで貴族の装いだった。

 再び男たちの前に引き出されたユノは検分され、よくわからない話し合いの結果、目深に薄布を被せられた。クラッススのこれでいいでしょうという一言で、今度は郊外近くまで連れて行かれる。首都の外に出る街道の脇では馬が用意され待機していた。

「時間がない。急ぎましょう」
 男たちは馬に乗り、ユノはそのうちの一人の前に座らされた。馬を走らせる掛声とともに、一行は街道を走り始めた。
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