生け贄の踊り子は不遇の皇子に舞いを捧ぐ

7、ユノの恐怖/ラティナの危機 前

 やわらかいものの上に降ろされたとき、ユノはふっと意識を取り戻した。
 引き立てられている最中に気を失ったらしい。

 ぼんやりしていると上掛けをかけられて人の気配は遠ざかっていった。ぱたんと木戸が閉じる。
 一人っきりになったと意識したとたん、涙があふれて顔の横を伝った。

 どうして?

 ユノは身の上に起こったことを信じられずにいた。

 朝はまだ娼館でいつものように暮らしていた。
 なのに何故、今こんなところにいるのか。
 大剣を振りかざした男は本気だった。かばわれなければ、本当に殺されるところだった。
 ユノはぶるっと身震いする。

 大剣から救われたからといって安堵できる状況じゃなかった。

 生贄って何?

 生贄とは神に命を捧げることではなかったろうか。家禽を祭壇の上で屠る──殺すこと。ユノはがばっと起き上がり自らの体を抱きしめた。がたがたと震えがくる。

 あたし、殺されるために買われたの?

 人間を生贄にするなんて聞いたことがなかったけれど、生贄という言葉に間違いなければそういうことなのだろう。
 偽者とか妃とか神託とか、あの場で交わされた言葉がぐるぐると頭の中を回る。
 直接教えられなくてもだいたいの事情はわかる。
 ユノは神託で生贄に選ばれた妃の身代わりにされるのだ。

 寝台の上で、ユノは頭を抱えうずくまった。

 何であたしが?

 朝には夢を見ていた。人気者になって良い主人に買われていって、いつかニカレテのように店を持とうと。叶うかどうかわからない大きな夢。その夢目指して頑張るつもりだった。
 でももう、その夢が叶う将来はやってこない。将来そのものが途絶えてしまおうとしている。

「どおしてぇ…………?」
 嗚咽の合間にしぼりだす。何故こんな目にあわなくてはならないのか。

 偽者だと言われて殺されそうになったということは、偽物に仕立て上げられたというそれだけの理由でいつまた命脅かされるかわからないのだ。

 恐怖が血のように全身を巡って、気が狂いそうになる。

 ユノは無意識に寝台を降りた。
 部屋の様子が目に映る。天井が高くて広い。ユノのような身分の者はこのような部屋を与えられただけで恐れ入ってしまうのに、恐怖から逃れようとするユノはその感覚が麻痺していた。
 ただ、十分な広さがあるとわかって、奇妙な安堵を得る。

「これなら踊れる」

 ユノはそうつぶやくと、部屋の中央へ躍り出た。


 ──・──・──


 神殿兵宿舎のカスケイオスの部屋に招き入れられたセリウスは、そこでようやく事の次第を聞いた。

 セリウスは食事が置かれた木製のテーブルを強く叩く。
「何だって!?」

 荒立たずにはいられない内容だった。知恵と月の神で帝国の守護神の片翼女神エゲリアが、祈願祭(スプリカティオ)で皇帝の妃を生贄に望んでいると嘘の神託を下したというのだ。
 嘘──つまり神託を偽って、帝国を騙そうとしたということだ。
 人間を生贄に捧げるなど、とうの昔に途絶えたはずなのに何かおかしいと思っていたら、そんな恐ろしい企てが進行していたなんて。

「神罰が下るぞ!」
 憤るセリウスを上回る激しさでカスケイオスは怒鳴った。
「神罰が下るのならアントニウス・アレリウスにこそとっくに下っている!」
 セリウスは激しさに飲まれて口をつぐんだ。

 セリウスを見下ろすほどの長身にがっしりした体躯をしたカスケイオスは、セリウスがこの神殿で修行していた頃からの友人だった。友人といっても十も歳が離れているので、お互い歳の離れた兄弟みたいな感覚だったかもしれない。
 神殿兵になる前は兵士として各地の戦場に赴いていたという。方々を渡り歩いてきたカスケイオスは博識で、神殿での勉学では知りえない各地の様子や帝国の現状を教えてくれた。
 外の世界についてろくに知らないセリウスをカスケイオスは面白がって、神官見習のセリウスに必要ない戦争の方法まで話して聞かせた。
 当時は聞きたくないとよく耳をふさいだものだが、予定外に世俗に戻ることとなり軍務に就いたときには、無理矢理聞かされた話がずいぶんとセリウスを助けてくれた。

 恩さえあるカスケイオスが道を踏み外す悪事に荷担するなら、セリウスは何としてでも止めなくてはならない。
 しかし、その決意は次のカスケイオスの一言で頭の隅に追いやられた。

「キニスリー族がこのラティナから見える土地まで迫ってきている」

 セリウスは顔色を変えた。
「まさか! そのような話は聞いていない」

「だろうな」
 カスケイオスは投げやりな様子で答えた。
「皇帝陛下には報告書を提出した。だがその回答は、『キニスリー族は三年前の戦いにおいて決定的な大打撃を与えたはずだから一都市に攻め込めるだけの力はもはやない』、の一点張りだ。ラティナは皇帝補佐と敵対する元老院の長老トリエンシオス殿の勢力が集った都市だから、皇帝補佐としてはいっそキニスリー族に攻め入ってもらって長老殿の権力を削いでもらいたいという腹積りらしい」

 セリウスは再びテーブルを叩いた。口をつけられていない杯からぶどう酒の滴がこぼれる。
「ラティナは首都を守る要だ! 陥(お)ちたら首都が、帝国そのものが危うい!」

 『鉄壁の七都市』に囲まれた首都は防御がおろそかになっている。防衛のための軍の配備さえない。周辺都市を一つでも落とされれば首都へと侵略する道を開かれてしまうというのに、七都市の危機に際してもあきれるほど無防備だったのだ。

 カスケイオスは憤懣やるかたないため息をついて言った。
「だが皇帝補佐殿はたかが一都市が陥ちたところで帝国は揺るがないと確信しておられる」
「馬鹿な……」
 セリウスも信じられない思いでうめいた。

 カスケイオスは投げやりに話す。
「そう、馬鹿な話さ。かつて帝国は皇帝自ら陣頭に立ち敵と戦い領土を広げていった。領土が広大になると皇帝に代わり有力貴族が自分たちの責務として誇りを持って兵を率いた。しかし古きよき精神は、帝国が並びなき大国家となった頃から慢心へと変わった。かつての誇りは忘れ去れれて、皇帝は玉座にふんぞり返る人形となり果て、貴族たちは我欲を満たさんがためにそこへ群がる蟻のようだ。今では帝国領土のあちこちで蛮族どもの侵入を許し、それらを押し返すだけの力がない」

 三年前にはラティナの北に位置する『鉄壁の七都市』の一つタウルスがキニスリー族によって陥落しかかった。天にも届く高峰を連ねるテュレニア山岳を防御の一つとしていたタウルスは、そこから侵攻してきた蛮族に不意を突かれたのだった。
 奇跡的に持ちこたえたが、未だそのとき築いた防護壁をはさんでにらみ合いを続けている。

「キニスリー族は他部族を取り込んで大きくなった部族だ。今まで対峙してきたどの蛮族とも様相を異にする。しかも最近東のボイー族と西のエクサン族が合流し、かつてない規模にふくれあがっている」
 ボイー族もエクサン族も数万人を越える大民族で、以前から帝国の領土を度々侵してきた。それらが万を数えるキニスリー族に合流したというのか。

 数十万数百万の大民族が、数千人規模の城塞都市ラティナに押し寄せてきたら……。
 セリウスは背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
< 7 / 56 >

この作品をシェア

pagetop