記憶がどうであれ

19話

 目の前にいる人は元主人…そう、元。
 離婚の際揉めたわけではないけれど、決して円満離婚とは言えない状況での離婚。
 私は離婚の申し入れを受け入れたけれど、元主人が記憶を無くさなければきっと離婚したいと思うことは無かった。だから私が心から納得しての離婚とは言えない。
 そして、離婚することが決まってから私が考えた事は、元主人と結婚しなければ良かったという後悔。
 そんな人生の後悔の象徴のような相手に私は何を言えるというの?

「私はきっと…同僚の天野さんより貴方の事を知りません。 なので、本当に何も言えることはないんです」
「結婚していたのに?」
 元主人は本当に驚いているようだ。
「ご両親から聞いてませんか? 私、貴方のご両親とうまくいってなかったんです。だから貴方の子供の頃のことも知りません。本当に私と出会ってからの貴方しか知らないんです」
「両親は…確かに記憶喪失になって嫁の事を覚えていないなら離婚するのかと訊いてきた。そうすると答えても何も言わなかった…君の事について何も…」
「でしょうね」
 きっと手放しで喜んでいる。
 元主人の新しい嫁候補を嬉々として選んでいても可笑しくないと想像して苦いものが込み上げる。

「君が知っている俺はどんな人間だった?」
「どんな…」
 傲慢な人だと思った。
 何故だか一緒に食事をするようになった。
 いつも自慢話をする嫌味な人だと思った。
 いつの頃か自慢話は私に褒められたいから話しているのだと解る様になった。
 自分の為では無く、相手の為を考えた行動を取る様になっていくのを肌で感じた。
 私が必要だと言ってくれた。
 私はそれが嬉しかった。
 結婚するなら私を愛してくれる人と…そう思っていたから。
 私は箇条書きの様に話しをした。
「俺が君を愛していた…そうなんだな」
 元主人は今何を考えているのだろう。
 私が無理やり結婚を迫ったと思っていたのかもしれない。
 …でもそう思われても仕方がない。
 元主人はきっと私なんて好みではないのだろう。だから私の様な容姿の女と結婚した事が信じられなかったのだと思う。 だって、すぐに離婚を望んだくらいだもの。
「天野さんとはその後お付き合いを始めたんですか?」
「天野と? どうして?」
 考えた事も無いと言った台詞に驚く。
 私には関係がないのだからそんな事を訊くなという言い方では無い。
「あれだけ信頼している関係をみせつけられたらそう思っても可笑しくないんじゃないですか?」
 いくら離婚すると決まっていてもまだ妻だった私の前であれだけ仲の良さを見せつけたのだからこれくらいの嫌味は言ってもいいだろう。
「天野とはあくまでも仕事の関係だ。 エリート志向という時点で女としての魅力を感じないな」
 あの美人に魅力を感じない?
「あんなに綺麗な方をそんな風に言うなんて…」
 でも、確かに元主人が育った家庭環境ではそういった考えの女性に魅力を感じないのかもしれない。
 家庭を大切にする女性が元主人のタイプなのかも。私がそれに当てはまったのかは解らないけれど…
「そんな事よりさっきの話に戻るけど、俺は君に褒められたくて変わっていったという事か?」
 そんな事…当人がそんな事と言う彼女の想いの所為で私と彼は振り回されたのに。
 目の前の元主人への怒りが湧いてしまう。
 間違っているのは解っている。
 元主人が彼女からの好意に気付かないのも、彼女へ好意を持てないのも元主人は悪くない。 誰を好きになるのかは元主人の自由だ…それは解っている。
「天野さんに訊いたらどうですか? 天野さんは何年も前からお知り合いなんですよね?」
「もう聞いた。 天野は笑顔が多くなったと言っただけで、他はよく解らないと言っていた」
「仲が良かったんですよね?」
「そんな事は無い。ライバルだと思ってきた」
 それだけ?
「天野とは俺の転勤の際に疎遠になっていた。こちらに戻ってからもそんなに親しくしていた気はない…でも事故の後親切にしてもらって感謝してる。 だけどそれだけだ」
「そうですか…では、天野さんの言葉を信じて笑ったらいいじゃないですか。 笑顔のお陰で会話が円滑に進むかもしれませんよ?」
「そんな事で…」
「そんな事と思っているのなら無駄でしょうね」
 他の人から笑顔というキーワードを貰ってもそんな事と言ってしまうのなら、例え私が何か言っても同じ反応しかないだろう。
 出会った頃の元主人はそんな人だったもの。
「私ではお役に立てませんのでもうこういったことはしないでください」
「待ってくれ!」
「…どうやって私を探したんですか?」
「結婚式に出席したという同僚が結婚式のプロフィールブックを持っていて…」
「探させたんですか?」
「捨てていないのなら見せて欲しいと頼んだ」
 それで私の職場の名前を知ったのか。
「私の事は忘れてください。 私はもう貴方に会いたくないんです」
 一生を共にしようとしていた決断が間違っていたのだと後悔ばかりしてしまうから。
「俺が君を好きで、君は俺を好きではないのに結婚していた…そういう事なのだろうか?」
「今さらです。 離婚をすぐに受け入れた事実で理解できませんか?」
 馬鹿らしい。
 私達がどんないきさつで結婚しようとどんなに幸せな結婚生活をしていようと何一つ覚えていないくせに。
 自分が愛されていない結婚生活をしていたと知り傷ついている。
 私がこんな嘘をついても元主人には本当のところは解らないのだ。
 記憶をなくしてからの冷めた生活が全てなのだとそう思っていたくせに今さら何故そんなに傷つくことがあるのだろう。
「いい会社に勤めていて愛してると言ってくれたから結婚しただけです。貴方に愛されていないのなら離婚するのは私の中で当然のことでした」
「君の気持ちを知っていても俺は君が欲しかったから結婚したということか…」
「さぁ? 何故そんなに私に固執したのか理由はわかりませんけど」
 私は悪女のようになれているのだろうか。
 ただの負け犬の遠吠えになっていなければいいけれど。
 私は元主人に一つの親しみも感じず冷めた目でいる自分に正直驚いている。
 自分がこんなに元主人に心揺さぶられないなんて…やっぱり私はこの人と結婚するべきでは無かった。
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