記憶がどうであれ

29話

 彼と何度か逢瀬を繰り返した頃、虹川くんから連絡があった。
「原稿やっと終わったんだ。ご飯食べに行かない?」
「久しぶり! 執筆終わったの?」
「うん」
「そっか、お疲れ様。 何が食べたい?外食久々でしょ?」
「店は俺が選んでもいいかな?」
「うん。楽しみにしてるね」


「虹川くん!!! 凄い爽やかになったね!」
 久々に会った虹川くんは、もさもさだった髪をスッキリとカットしていた。
「めぐちゃんに言われたこと思い出してイメチェンしてみた」
「イイ感じだよ!!! これなら次のサイン会は長蛇の列になるんじゃない?」
「そうかな? だと嬉しいけど」
 このヘアスタイル、付き合っていた頃に似ている。
 虹川くんの笑顔を見ると懐かしさが込み上げてくる。
 目の前に今の虹川くんが居るのに、あの頃の虹川くんがいるような…そんな錯覚をしてしまった。 

 家庭的な雰囲気のお店を虹川くんは選んでいた。 
「お疲れ様! 発売されたら買うね!」
「あげるけど?」
「自分で買うよ。 買ったあとにサイン書いてくれたら嬉しいな」
「めぐちゃんの好みのジャンルじゃないんだから無理に買わなくてもいいよ?」
「虹川くん営業向きじゃないね。 一冊でも多く売れた方がいいじゃない」
「…でも好みのジャンルじゃないってところに否定しないだろ?」
「あ…でも今まで読まなかったってだけ。 読んだらとても魅力的だと思ったよ」
「そう? めぐちゃんの新しい扉開いたかな?」
「うん。 ありがとう」
 私は笑う。
 食事が運ばれてくるとどれもこれも温かみのある優しい味。
 少し会話を中断し夢中で食事をしていると、虹川くんがジッと私を見ている事に気付いた。
「ごめん。夢中で食べてた」
 私が照れると虹川くんは、
「ご褒美欲しいな」
 と言った。
 私は「え?」と訊き返してしまう。
「新しい扉を開く手伝いができたんだよね? めぐちゃん、いつもご褒美くれただろ?」
 あの当時の私の口癖……もうそんな台詞は言わない。
「あの頃ね…そんな生意気な台詞よく言ってたね~。 笑っちゃう」
 私が茶化すと虹川くんは私の手にそっと自分の手を添え、
「本気でご褒美が欲しい」
と乞う。
「…何言ってるの?」
「めぐちゃんと離れた時、人生ってこんなものだと思った。
めぐちゃんにとって自分が都合のいい存在なんじゃないかと考える様になってからずっとめぐちゃんと離れる事がお互いの為だと思っていたしね…」
「あの頃は、ごめんなさい。 私、家に帰りたくなくていつも虹川くんに依存してた」
「でも俺がダメだった。 めぐちゃんの匂い、口癖、柔らかな身体…全部忘れられなかった」
「っ!?」
「偶然再会できたのはきっと運命さえ俺の味方をしてくれたと思う」
「待って! 私、虹川くんが思ってるような女じゃ無いから!!!」
「思ってるって何? 何も勘違いなんてしてないよ」
 簡単に男に股を開く女なの…それを言ったら虹川くんは目を覚ましてくれるの?
「私…彼氏は居ないんだけど…会ってる人が居る」
「会ってるって、つまり俺みたいに食事するだけじゃない相手が居るって事?」
 小さく頷く。
「それは…お互い納得して?」
「うん」
「その人と縁を切って俺と付き合ってくれない?」
「虹川くん!?」
 そんな簡単なことじゃないでしょ? 私と虹川くんとの恋はこんなドロドロした事とは無縁だった。
 虹川くんに依存してしまってただ温かな恋とは言えなくなってしまったけれど、お互いに他の人に目を向けた事はなかったし浮気を疑ったことさえ無かった。
 付き合っても無い人に抱かれている女を虹川くんは何も思わないの?
「過去は変えられないんだ。だからめぐちゃんを否定したりしない。 だけど、これからは未来を見ようよ」
 未来…?
 ぶわっと涙か流れた。
「めぐちゃんの憧れていた温かい家庭を作ろう」
 バッと顔を上げる。
 私が温かい家庭に憧れていたとどうして知っているの?
「めぐちゃんはきっと俺でなくても幸せになると思ってた…だけど、あの頃の俺は俺でなければダメだと言って欲しかったんだと思う。
俺は恋に恋してた…理想と現実を分けられない程」
 私が虹川くんに必死に縋りついたら虹川くんは嬉しかったという事?
「めぐちゃんは今幸せ?」
 俯くしかできない。
「俺の一番はめぐちゃんです。仕事で連絡とることもできなくなるこんな生活は辛い、できればいつも会える関係に…結婚を考えて欲しいんだ」
「っ!? そんな事考えられないよ」
「結婚がダメなら同棲でも…俺をめぐちゃんの一番にしてください」
 一番…私の一番大切な人…
「ごめんなさい…」
 恋していた。 読書という同じ趣味を持ち、私が言う事を嫌な顔せずに頷いてくれる穏やかな虹川くんに。
 雰囲気や声、全てが優しくて、特にモテる要素のない私を「可愛い」と言ってくれた人。
 あの当時、本当に大好きだった…大好きだったの。嘘じゃ無い。
 だけど、私は愛を信じられない人間で、虹川くんとの未来さえ信じられなくなった。
 簡単に離れることを選びそれに納得した虹川くんを見てやっぱりと思っただけ。
 必死で求めることは無かった。
 私にとってそうだった様に、虹川くんにとっても私はその程度の存在だと思っていた…
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