記憶がどうであれ

5話

「離婚……いつしますか?」
 と訊くと、何度も「申し訳無い」と頭を下げる主人。
「いいんです。忘れたいほど嫌な思いをさせていたのかも知れない妻の事なんて気にかけないでください」
 と告げた。
 それは本心からの言葉。
 私は主人にとって忘れられない存在では無かった…
 忘れたくない、忘れられない存在で居たかった。
 その位の思いを向けられていると思っていた。
 …いつか記憶が戻るのかもしれない。
 でも、私は忘れられた存在だったことを忘れることはできないだろう。
 愛されて結婚したという気持ちがいつもどこかにあって、それを私は自信にしてきた。
 その自信は今は綺麗さっぱり消えた。
 主人の側でいつか思い出してくれるその日まで共にありたいとはとても思えない。
 主人は「離婚したい」と思っているのだから…
 結婚していることへの責任にも、記憶を無くす前の自分の思いにも関心や興味が無い今の主人を信じて待つという選択肢はあり得ない。

 住む場所がお互いに決まり次第離婚届を提出しようと決めた。

 自信は消え失せたし離婚することに納得もしている。
 けれど、悔しいと心が訴えてくる。
 この人と一生を共にしようという気持ちを持って結婚したのだ。
 その相手と別々の道を歩むことになるなんて。
 しかもその理由が記憶喪失だなんて…悔しいと思う事がおかしくは無いだろう。
 悔しい。どうして私はこんなに考え無しだったのだろう。
 一生の事である、大事な結婚をたった数カ月の付き合いで決めた自分の人生の選択に後悔している。
 出会って、数カ月で結婚なんてしていなければ…
 今頃、二年間付き合った彼に振られたというありふれた別れだったのに。
 記憶喪失はありふれた事ではないけれど、二年付き合った彼と別れるなんて誰にでも起こり得る事だと思う。
 離婚をすることは戸籍上バツが付き、名字も元に戻す。
 保険関係は色々戻さなくてはならないし、銀行にも足を運ばなければならない。
 面倒事ばかりだ…
 結婚した時はあれもこれも変更しなければ、と楽しかったのに。


 次の日から不動産屋に通い、ほどなくして引っ越し先を決めた。
 主人も引っ越し先が決まったと聞いたその翌日、一人で役所へ向かい、離婚届が受理されもう元が付く主人が居る家へ戻る。

 紙切れ一枚で夫婦になり、あんな紙切れ一枚で私達は他人へと戻ったのかと、空を見上げながら虚しさを覚える。

「お世話になりました」
 私からの最後のお礼。
 元主人は同僚の彼女を伴っている。
 引っ越し先を会社の近くに決めたので手伝いをしてもらうのだそうだ。
 彼女はまるでお付き合いしている彼女の様に元主人の隣に笑顔で立っている。
 「もしも…思い出して君に会いたいと思ったら…どうしたらいいだろう」
 そう元主人が言うと、彼女の顔色は一瞬で変わり汚い物でも見るみたいに私へ鋭い視線を向けた。
 そこで、私が元主人に愛想をするとでも思っているのだろうか。
 馬鹿にしないで欲しい。
 そんな可能性に縋りつくくらいなら、何が何でも離婚なんてしない。
 だけど、私を思い出した時に会いたいと思うかもしれないという考えを持ってくれたことは嬉しく思う。
 少しは記憶を無くす前の自分が選んだ女の事を考えてくれたのだと思ったから。
 でも…
「思い出した時の事なんて考える必要無いですよ。 私は忘れたい存在なんですから。
きっと思い出しても会いたいなんて思うことはないはずです…」
 そうでなければおかしいではないか。
 結婚したいと情熱的に言い寄ってきた本人が、ここまで私に好意を持てないなんて。
 いくら忘れたからと言って、私という存在にここまで興味が持てないなんておかしい。
 …私から言い寄って結婚してもらったというのなら理解できるけれど、私は愛されて結婚したと、そう思っていたのだから。
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