記憶がどうであれ

6話

 私はその日のうちに引っ越しした。
 家財道具は全て私にくれると元主人が言ったので私は素直に頷いた。
 きっと、それが慰謝料ということなのだと理解したから。
 引っ越し業者を使うことになったが、引っ越しシーズンではないのでこちらの希望日時にお願いできたことは幸いだった。
 ただ、引っ越し先の小さなアパートに全ては入らないのでベッドやテーブルなどは元主人に処分してもらうことに。
 電化製品は元主人と時間をかけて選んだはずだったのに全く執着を見せなかった…
 もしかしたら、結婚する際二人で吟味して決めたと思っていた家電や家具は、結局のところ元主人は私の表情を読んで同調しただけで自分の好みでは無かったのかもしれない…
 そう考えると、何もかもを我慢させていたのかと気持ちが沈んでしまう。
 幸せだと思っていたのは自分だけだったのか…と。

 引っ越し先は言わなかった。
 元主人の引っ越し先も会社の近くと言う事以外は詳しく訊かなかった。
 それでいいと思った。
 元主人とは今後一切会うつもりは無い。


 元主人が記憶を無くしてから私は料理を作らなかった。
 知らない人の料理は食べられない少し潔癖ぎみの主人が、今は知らない人である私の料理を食べないと知っていたから。
 本当は好物だった物を作ろうかと一瞬考えたけれど、結局は口にも入れて貰えないのでは、「好きだった料理」「思い出の味」といくら言っても記憶を呼び起こすきっかけにはならない。
 時間をかけて料理する気にはとてもなれなかった。
 だいたい、すでに離婚に向けて準備している私達が楽しく食事をするなんてとても無理。
 元主人からは、私は本当に知らない人という扱いを受けていた。

 料理を作らない生活を、元主人は結婚生活の日常だと思っている様だったのは少し不満だったけれど、私は否定しなかった。
「仕事してるから料理しないんだね。なんて言葉に出さなくてもいいじゃない。
自分だって外で食べてきてたのに…
例え作ったって食べてくれる気も無いくせに。
私が料理してたら『今日は何?』って子供みたいにはしゃいでた…片付けは手伝うよって言ってくれてた…そんな人だったのに…」
 思い出すたびに、本当に同じ人間なのかと疑問を感じてしまう程だ。

 きっと元主人は私と出会った後で変わった部分が多いのだろう。
 今は私が出会う前の知らない人に戻ってしまった……
 記憶を無くしたと言う日からずっと私はその事実を受け止め続けた。
 だから大丈夫。
 私が愛されて結婚したはずの人は、もうこの世には居ない。

私は最後まで彼女との関係を訊かなかった。
訊いてどうなる。
今の元主人には私と結婚してからの記憶が無いのだから。
例え二年前に彼女と付き合っていたとしても、その後も私との二股で付き合い続けていたかの記憶は無い。
不倫をしていたのか…そうでないのかなんて一生解らないのだろう。
ただ解るのは、今元主人にとって彼女こそ頼るべき人間であると言う事だけ。
私よりも彼女が必要だと思っている事だけ。
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