君のいた時を愛して~ I Love You ~
 いつもより遅く部屋を出たので、俺はダッシュで定食屋を目指した。
 バスに乗れば四停留所の距離なので、いきなりダッシュでは夜勤明けの体力は持たない。それでも、遅刻はしたくなかったので、段々にスピードを調整しながら長距離走をこなし、俺は定食屋の裏口に駆け込んだ。
「大将、おはようございます」
 大きな声で挨拶すると、オーナーが笑顔で迎えてくれた。
「おっ、はやいな鰆(さわら)、今日はバスか?」
 最初のスピードダッシュの成果か、幸運にも俺は一番乗りで店に着くことができた。
「いえ、自前の高速運転です」
 俺が言うと、オーナーはニコニコと微笑んだ。
「鰆(さわら)は、生きがいいねぇ。やっぱり魚はそうじゃないとな」
 でも、この店が魚料理専門の定食屋だと言うことを考えると、俺はすこし複雑な気持ちになる。
「店のチェックはじめます」
 俺は言うと、テーブルと椅子の位置を確認してテーブルを拭く。それから、箸や醤油、小皿などがきちんと調えられているかを確認し、不足のあるテーブルには足りない分を補給した。
 そうこうしているうちに厨房の方がにぎやかになり、仕込みの後休憩に出ていた常勤のスタッフが戻り、他のバイトも出勤してきた。
「これ、今日の定食と一品料理と小鉢ね」
 配膳に回るスタッフ全員に短冊状に折られたメニュー一覧が手渡され、暖簾(のれん)を出す迄の短い間に暗記する。
 既に店の前には開店待ちの行列が出来始めているのが、半端ないプレッシャーになるが、流石に長く働いていればメニューのバリエーションも分かってくるので、そこまで緊張はしない。
「あ、鰆(さわら)、入ったばっかりの小女子(こうなご)ちゃんのフォロー頼むよ」
 大将に言われ、俺は小女子(こうなご)ちやんと呼ばれた二児の母の方を向いた。
「小女子(こうなご)ちゃんには、洗い場をまもって貰おうと思ってたんだけど、昔ウェイトレスやってた経験があるって言うから、配膳に女性が入ったらお客さんも喜ぶかと思ってね」
 ある意味、バリバリのセクハラ発言のような気もしたが、二児の母とは言え、たぶん俺とほとんど年が変わらないだろう小女子(こうなご)さん(本名は知らない)は『よろしくお願いします』と丁寧に挨拶してくれた。
 まあ、独身美人じゃないから、他のスタッフからの妬(ねた)みも嫉(そね)みもなくて済む。これが、美人大学生のバイトだったら、直ぐに誰かに代わってもらうところだ。
「はい、暖簾(のれん)出すよ」
 大将の鶴の一声に、ベテランの先輩が暖簾(のれん)を出しに行き、それと同時にお客が怒濤のごとく店の中に流れ込んでくるのを速やかにテーブルに割り振っていく。
 お客がテーブルにつくと、まずお茶の入ったポットと湯飲みを持って行く。つまり、湯飲みを持っている客には、すでに誰かが対応していると言うことになる。俺が持って行くのは、基本的に『鰆(さわら)』と書いてある湯呑みだが、『小女子(こうなご)』という湯呑みがないので、小女子(こうなご)さんも『鰆(さわら)』を使うことになる。
 一見(いちげん)さんは別として、常連さんになると、湯呑で担当がわかるので、すぐにオーダーミスや追加などを担当者指名で教えてくれるので、戦場のような混沌の中で、間違いが起きにくいのは大将のこのアイデアのおかげだ。
 戦争のような三時間、定食、小鉢、一品料理の名前と担当の魚名、それに『お愛想(あいそ)お願いします』という声がお客の会話で賑わう店内に響きわたる。
 一応、ラストオーダーは二時半だが、二時の声を聞く頃には品切れのメニューが増え、ほぼ二時半には閉店になる。
『ありがとうございました!』という客を送り出す声も、店内が空いて行くに従い大きく聞こえるようになる。
 最後の客を見送り暖簾(のれん)をしまうと、片づけ終わっているテーブルに賄(まかな)いが運ばれてくる。
 最初に賄(まかな)いを食べるのは、夜の仕込みに入る厨房係だが、彼らは奥で最後の料理を出した後から食べ始めて居るので、店で賄(まかな)いを貰うのは配膳係だけだ。
「いやぁ、今日もすごかったね」
「なんといっても、鯵(あじ)がオーダーミスなしって奇蹟だよな」
「小女子(こうなご)ちゃん、鰆(さわら)とテーブル分からなくなって焦ってたね」
 などなど、バイトが軽口をたたく中、小女子(こうなご)さんが俺に頭を下げた。
「すいません、私が間違って配膳しちゃって」
 狭い店に通路も確保できないくらい客が入り、しかも相席の相席、初心者が間違わないはずがない。
「誰でも最初はそうですよ、俺も最初はしくじったし」
 俺は言うと、次のバイトの時間を気にしながら賄(まかな)いをかき込む。その瞬間、部屋に置き去りにしたサチが何も食べずにいるのではないかと、サチのことが心配になった。
 次のバイトが終わるのは夜の十時だ。もし、サチがあのまま部屋にいたら、食べる物なんて何もない。
「あの大将、賄(まかな)い持ち帰っても良いですか?」
 問いかけながら、俺はほとんど食べきっている自分のどんぶりに頭を掻いた。これじゃあ、持ち帰るどころか、流しで洗う方が正しい平らげっぷりだ。
「はは、お代わり持ち帰りってことか」
 大将は優しく微笑みながら、テイクアウト用の器に賄(まかな)いの残りを入れてくれた。
「次のバイト、今日は時間早いんだな。頑張れよ!」
 賄(まかな)いの入った袋を手渡しながら、大将は『体に気をつけろよ』と、小さく耳打ちしてくれた。
「鰆(さわら)は一番乗りだったから、上がって良いぞ」
「ありがとうございます」
 俺はお礼を言って器を片付けると、来たときと同じで、猛ダッシュで部屋を目指した。


 必死に走る俺を追い越していくバスを睨みながら、俺は走った。サチに温かい賄(まかな)いを届けたくて。
 一階の玄関のドアーを蹴破りそうな勢いでくぐり、靴を下駄箱に放り込むと鍵もかけず、階段を駆け上がって扉を開けた。
 しかし、そこにサチの姿はなかった。
 扉の前に毛布がきちんと畳んで置いてあることが、サチは現実にこの部屋に居たのだと物語っていた。
「俺って、バカだ・・・・・・」
 こんなに必死に走って食事を届けてやる義理も無いのに、バカみたいに店から走って帰ってきて、小女子(こうなご)さんとの話も中途半端にして。あれじゃ、俺が怒ってるとか、嫌ってるとか、変な誤解されるかもしれないのに。
 ふっと疲れからか、足の力が抜けて俺は入り口に膝をついた。
 別に、サチに会いたかったわけじゃない。サチがここにいるのを期待していたわけじゃない。
 じゃあ、なんで俺はこんなに一生懸命に走って帰ってきたんだ?
 俺は賄(まかな)いの入った袋を胸に抱えてうなだれた。
 俺、何してたんだ? 何考えてたんだ? 普通、出て行くだろう。転がり込むなら、もっと金のありそうな男を探すだろう・・・・・・。
 そうだよ、俺が仕事をなくして住むところをなくして、一番辛かったとき、助けてくれたのは恋人じゃない。コツコツ貯めていた、わずかばかりの貯金だ。
 『来年、遅くても再来年までには頑張ってお金を貯めて、結婚しようね!』そう言ってた美月(みづき)は、俺が失業して、寮を出なくちゃならないことを話したら『一緒に暮らそう』でも『仕事見つかるまで居ていいよ』でもなく、『別れよう』と言った。
 ずっと言い出せなかったけれど、実はもう何年か前から、俺との結婚は現実的だと思えなくなっていたと。それなのに、失業して行く当てもなくなるなんて、結婚なんて論外だと。
 『おじさんの会社の取引先の会社社長の息子さんとお見合いするから、たぶん結婚することになると思う』と言うのが、美月の最後の言葉だった。俺は絶望し、美月に失望して『見合いなんてやめろ』とも、『愛している』とも言えなかった。だから、そのあと本当に美月が見合いをしたのかも、結婚したのかも俺は知らない。ただ、何も言わない俺に、美月の瞳は冷たく、まるで俺を見下すような、憐れむような、そんな光を浮かべていた。
 『何年も付き合った恋人が、自分を見捨てて見合いをするというのに、黙って引き下がるのか?』、『お前はその程度の男なのか?』、『本当に愛しているなら、奪って見せろ』と、問われているようにも見えたが、俺は『わかった』とだけ言って美月の前から去った。
 結局、こんなホームレス一歩手前の生活してる俺のそばになんて、誰もいてくれないんだ。
 涙は出てこなかった。悲しくも寂しくもなかった。ただ、どこをどうしたら、この貧しさから抜け出せるのか、それが知りたかった。
 恋人も欲しくはない。友達だって居なくても良い。ただ、なんの贅沢もしていないのに、支払いに追われて、いつこの暮らしも失うかもしれないという不安から逃れたかった。
 胸に抱いた賄(まかな)いが、とても温かく感じられた。この一食だって、あの定食屋の仕事を失ったら自腹でお金を払って買わなくてはならなくなる。
 いっそ、一日一食にして、水だけ飲む暮らしをしたら、お金は貯まるのか? そうやって生きることになんの意味があるんだ? なんで、俺は生きてるんだ?
 ギュッと瞑った目尻に暖かい物が集まっていく。
 その時、板が軋む音がして背後で扉が開いた。
「おかえりなさい」
 サチの声に、俺は驚いて振り向いた。
 なぜだか、とてもサチを愛しく感じて、俺は涙をこぼしながらサチを抱きしめた。
 サチは突然の俺の行動に驚いたようだったが、おずおずと俺の事を抱きしめ返してくれた。
「おなか、減ってるかと思って」
 俺はサチを放しながら言うと、床に転がってしまった賄の器をサチに手渡した。
「俺は、これからすぐに次の仕事に行くから、帰りは遅くなるから・・・・・・」
 受け取ったサチは驚いたように、プラスチックの安っぽい器にぎっしりと詰め込まれたご飯の上に煮魚の名残が乗せられているものを見つめた。
「ご飯が温かい」
 サチは子供のように微笑むと、器を頬に近づけた。
「こんな温かいごはん、久しぶり・・・・・・」
 サチは目を潤ませながら言うと、器を胸に抱きしめるようにして抱えた。
「これ、全部食べちゃっていいの?」
 男盛りの賄は、細いサチの体ではとても食べきれなさそうに見えた。
「ああ、昼と夜、兼用みたいになるけど、いいか?」
 俺は段々に恥ずかしくなり、サチから顔を逸らしながら言った。
「すごい! 三食食べるなんて、誕生日かな? クリスマス? とにかく、お祭りみたい」
 笑顔でサチは言うと、顔を逸らしている俺の顔をしたから覗き込んだ。
「あの、本当に全部食べちゃっていいの?」
 サチの心配は、俺に嫌われる事よりも、食べ物の恨みの方だったのかもしれない。
「俺は、仕事先で何か貰ってくるから」
 そう、俺の場合『買ってくる』のではなく、正確には『貰ってくる』になる。それは、生鮮野菜の売り場の野菜くずや、大量に捨てられるキャベツの外側の葉であったり、大根、かぶなどの葉など無造作に主婦が捨てて行くものを貰うのであって、決して買うのではない。それに運が良ければ、廃棄直前の惣菜やパンも貰う事ができる。
 パートの女性たちは、さすがに恥ずかしくて手を出さないようなものでも、独身男のワーキングプアーとなれば、みんな見ても見ないふりで済ましてくれる。それに、見られても恥ずかしいと思う羞恥心も、今の俺にはない。ただ、毎日、生きて、食いつないで、他人に迷惑をかけないこと。それだけしか、今の俺は考えていない。
「お仕事、気を付けてね」
 サチの言葉に、俺はまっすぐにサチの事を見つめ返した。
「遅くなるって言っても、昨日みたいには遅くならないから」
 俺はサチを安心させるように言うと、すぐに次の仕事へと向かうべく部屋を後にした。
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