君のいた時を愛して~ I Love You ~
 目が醒めた時、自分以外が部屋にいる違和感は、サチがこの部屋に住み着いてから数日経っても慣れなかった。
 『うちに来るか?』と誘ってしまった手前、何時まで居るつもりだとも訊けず、別にサチは俺の生活の邪魔になるようなことは何一つしないから、追い出す理由もない。
 一階に設置されている共用の洗濯機も、俺一人の時は使う事が出来なかったが、サチは住人に聞いたのか、いつの間にか俺の着替えやシーツなども洗ってくれて、せんべい布団を陽に干したりもしてくれた。
 俺一人の時は、洗濯物は貯めるだけ貯めて大通りのコインランドリーでまとめて洗っていた。それを考えれば、共有の洗濯機で洗濯をしてもらえるのはありがたい。何しろ、光熱費込みなのだから、二台しかない洗濯機と一台しかない乾燥機、しかも日没後の使用禁止を使えるかどうかでお得さは大きく変わる。
 ある意味、みな生活に窮しているものが集まっているから、洗濯機や乾燥機の中に衣類を放置しておけば、見事に外に放り出される。俺自身は経験したことないが、洗濯機や乾燥機の中に洗濯物を放置して洗濯場に衣類を散乱させられた住人は何人も知っている。
 お陽さまの香りのする枕から頭を上げると、体を丸めて毛布にくるまるサチの姿が目に入った。
 サチは律儀で、交代でベッドを使おうと言っても『ここはコータの部屋だから』といって、床に毛布で寝ている。
 それが、見知らぬ男が寝た布団に寝たくないからなのか、本当に家主の俺に気を使っての事かは、俺にも分からない。
 ただ、女の独り身で、一人暮らしの男の部屋に転がり込んだ時点で、何をされても文句は言えない立場だという事くらい、子供じゃないサチにはわかっているはずだ。
 そんなことを考えながら、俺はベッドの上で寝返りをうった。
 俺が動く音がしても、夜中にトイレに立ってもサチは目覚めない。それは、俺を安全な男だと信じているからなのか、どうなっても構わないという開き直りからなのか、俺にも分からない。ただ、黙って俺についてきた時点で、サチ自身の中で、なにか大きな決断があったのではないかと俺は勝手に思っている。
 例えば、同じ世話になるにしても、自分の好みから大きく外れた男に、一晩の宿の代わりに体を求められるのはは嫌だろうし、それを考えると、俺はきっとサチの好みの範囲に収まる男だったのではないかと、そんなくだらないことを時々考えてしまう。
 別に、女に飢えているつもりはない。
 もちろん、美月と別れて以来、女性と付き合ったことはないし、肌を重ねたこともない。
 不思議なことに、美月のおかげで女性というものに失望した俺は、スーパーで一緒に仕事をしている若い女性を見ても、買い物客の女性を見ても、そういう欲求を感じることはないし、その手の雑誌に浪費することもない。
 もしかしたら、俺は、もう男としての本能を失ってしまったのかもしれない。
 だから、こうしてサチと同じ部屋で何日も過ごしても、サチに触れたいという欲求も起こらない。

 目覚ましの音に俺が起き上がると、サチもモソモソと起き上がる。
「おはよう、サチ」
「おはよう、コータ」
 いつもの挨拶を交わす。まるで、俺たちは兄妹みたいだ。
「今日は、私が朝食作るね」
 サチは言うと、俺のお古のTシャツ一枚という無防備な姿でキッチンに立つ。
 さすがに、着た切り雀のサチに洋服を用意してやりたいと思っても、給料日まではどうにもならないから、サチは外出する時以外は俺の着古したTシャツに自分のショートパンツを合わせているが、さすがに寝るときはTシャツだけなので、目の前に立つサチは狼の前にちょこんとすわる子羊のような危なげなさにもかかわらず、動くたびにチラリと見えるお尻を隠そうともせず、器用に俺の真似をしてパンを焼き始める。
 俺はそんなサチを残し、外の洗面所に顔を洗いに行く。
 顔を洗い、いつものように頭に水をかけ、寝癖を直しながら部屋に戻ると、パンの焼けるいい匂いがした。
「コータ、目玉焼きもすぐにできるよ」
 パンの乗った皿を渡され、俺は片手で魚焼きグリルを持ち上げる。すると、サチがフライパンをコンロに載せ、お椀の中に割っておいた卵を流しいれる。
 ジューっという卵の焼ける音がして、みるみる透明だった白身が白くなっていく。
「半熟でパンに載せる?」
 サチの問いに、俺は『頼む』と答え、器用にサチが目玉焼きの半分をパンの上に落とすのを受け取る。
 サチは固焼きだから、しばらくフライパンの上で卵を裏返して黄身に火を通す。
「戴きます」
 俺は言うと、指で半熟の卵をついて割り、ソースをかけてパンにはさむ。
「もう、コータ、指で割るのは止めなよ」
 自分の卵と格闘していたはずのサチの言葉に、俺は首をすくめて見せる。
「ねえ、コータ。お願いがあるんだ」
 サチは言うと、俺に一枚のビラを見せた。
「なんだこれ?」
 俺はパンにかぶりつきながら答えた。
「今日ね、近くの公園でオープンマーケットが出るんだって」
「なんだそれ?」
 古着とか、いろいろ安く買えるんだよ。
「そうなのか?」
「うん、だから一緒に行こう」
 今日は定食屋の定休日なので、こんなに寝起きをバタバタする必要はなかったのだが、妙にサチが張り切っていたのは、このオープンマーケットに俺を誘い出すためだったらしい。
「わかったよ。サチが行きたいなら、仕事の前に付き合うよ」
 俺が言うと、サチは嬉しそうにほほ笑んだ。
「でも、俺の有り金で買えるようなものあるのか?」
 俺は財布の残りを思い出しながら呟いた。
「大丈夫。あたしも少しはお金持ってるから」
 サチの言葉に、俺は『そうか』と納得しながら、最後の一口を飲み込んだ。


 サチは、食後の片づけをしてから、俺がトイレに行っている間にいつもの黄色いシャツとモスグリーンのショートパンツに着替えた。
 俺はいつもの、くたびれたチノパンに襟付きのシャツを着ると、全財産の入ったバッグを斜めにかけ、サチと公園へと向かった。
 公園には、所狭しとテントが並び、あちこちに本格的な店からピクニックマットをひいただけの素人店舗までぎっしりと並んでいた。そして、どこからこんなに沢山の子供や大人が沸いて出て来たのかと思うほどの賑わいだった。
 俺はサチに手をひかれるまま、人込みの細い通路を歩き回った。
「おじさん、このペアカップいくら?」
 サチがブルーのマットの上に商品を並べている男性に声をかけた。
「五百円だよ」
「えー、高いよ。あっちのペアのお皿と一緒に買うから、まけて?」
 愛嬌のあるサチの笑顔に、男性は頭を掻いている。
「合わせて千円だよ」
 まける気のない男性に、サチはすぐに交渉をやめた。
「じゃあ、いい。あっちで買ううから」
 サチは言うと、俺の手を引いて違う店へと戻った。
「あのペアのお皿とカップ、いくらですか?」
 初老の男性は、値札を見ながら計算をしているようだった。
「合わせて五百円でお願いします」
 合計したら千円を超す商品に、サチは臆すことなく五百円玉を差し出す。
「いいよ」
 拍子抜けするくらい簡単に初老の男性は言うと、サチから五百円玉を受け取り、高そうな皿とカップを新聞紙で包んでくれた。
「ありがとうございます」
 サチはお礼を言って受け取ると、同じように何件かの店を行き来して、ペアのカップ、皿、茶碗、鍋などを恐ろしい安さで買い集めた。
 それから、衣類を売っているコーナーに移動したが、俺は時間切れでスーパーへ出勤する時間になってしまった。
「コータ、お仕事頑張ってね」
 俺はサチに見送られ、仕事へと向かった。
 仕事は単調で、忍耐と筋力の戦いのような時間だった。
 俺は仕事をこなしながら、サチに何も買ってやらなかったことを少し後悔していた。サチが何度か足を止めたぬいぐるみや、可愛い小物は決して高くなく、俺の財布でも買ってやることができたのに、サチの交渉術というか、黙って値引きしてくれる売り主を見分ける能力に仰天している間に時間切れで俺だけ仕事に来てしまった。
 サチは、あのあとちゃんと自分の洋服を買えただろうか?
 台所用品で予算オーバーになってなかっただろうか?
 俺は心配したが、既に遅すぎる後悔だった。もしかしたら、俺のこんな気の利かないところが美月に愛想をつかされたのかもしれないと、俺は考えながら仕事を淡々とこなしていった。


「ただいま」
 サチが住み着いてからの習慣で、俺は部屋に入るとサチに声をかけた。
「おかえり!」
 返事をしたサチは、可愛いフリルのエプロンをしていて、ここがお洒落な台所だったら、どこの新婚ほやほや新妻かと思うような、可愛さだった。
 しかし、どんなにサチが可愛くて、新妻のように見えたからと言って、その後ろに見えるガタのきたベッドも叩けばボコンという安っぽい音を立てる安普請の板壁も何も変わりはしない。
「今日は大漁だよ」
 自慢げに言うサチは、マーケットで仕入れたらしい折り畳み式の小さな丸テーブルの上に夫婦茶碗とお椀を並べ、更に真ん中に置いた大皿の上には俺がスーパーで仕入れて来た食材を使った野菜炒めが盛り付けられていた。
「あ、おれも大漁」
 俺は言いながら、カバンの中から野菜や缶詰を取り出した。
 実際、スーパーの青果売り場は俺たちにとって魔法の冷蔵庫みたいなもので、サチに言われるまま、廃棄される野菜をうまく探すことによってサチがいても俺の経済は苦しくなることはなく、サチが料理をしてくれるおかげで食事も栄養のバランスが取れてきたような気がした。
「サチ、洋服買えたのか?」
 俺は食卓に着きながら、サチに訊いた。
「うん、スカートが一枚と、ズボンが一枚。あと、ブラウスとTシャツ買ってきた」
 サチの言葉に、俺は少し安心したが、いったいサチの所持金はいくらなんだろうという疑問にも襲われた。
「あ、このTシャツ、コータにも買ってきた」
 俺の古着を着ているからサイズを知っているサチは、袋からTシャツを取り出すと俺に見せた。それは、思わず目が点になってしまう代物だった。
 男女二枚のTシャツを並べると、大きなピンクのハートができ、男物の方には『いつでも愛したい』と書かれていて、女物の方には『いつでも愛して』と書かれていた。
 正直、相手が誰であっても、このTシャツを着て外を歩ける自信は俺にはなかった。
「これね、二枚で百円だったの。だから、寝間着がわりに良いと思って。だって、厚地の良いコットンなんだよ」
 サチは自慢げに言った。
 確かに、俺の持っている安物のTシャツとは素材が違う。きっと、この素材なら、百回洗っても向こうが透けて見えるようにはならないだろう。
「この部屋の中で着るだけなら恥ずかしくないでしょ」
 サチに言われ、俺は曖昧な相槌をうった。
 確かに、この部屋の中だけなら恥ずかしくない。だが、夜中にトイレに行くときはどうなるんだ?
 俺は考えながら、ずっとサチに訊こうと思って訊いていなかった質問をする時ではないかと思い立った。
「サチ、歳を訊いても良いかな?」
 若く見えるサチだったから、もしかして、十代の家出少女かもしれないと思っていたが、マーケットで値切ったり、躊躇なくキッチン用品を買い求める姿は、主婦経験者のようにも見えた。
「コータったら、どうしたの急に・・・・・・」
 サチは急に静かになった。
「いや、もし、警察とかに届けられていたら、今日みたいな人込みに行ったらまずかったんじゃないかって・・・・・・」
 俺の言葉に、サチは口をつぐむと横を向いた。
「コータ、女性には、歳を尋ねるもんじゃないのよ」
「サチ・・・・・・」
「もう十代じゃないよ。二十歳はとっくに過ぎてるよ」
「そうか、それならいいんだ」
「コータは?」
「えっ?」
「私にだけ歳訊くなんて、ずるいじゃん」
「俺も、とっくに二十歳過ぎてる」
「じゃあ、二人とも、立派な大人だね」
 サチの笑顔に、俺はそれ以上なにも訊かなかった。
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