幸福な子供時代の思い出は、今も胸にキラキラと輝く宝物。

お父さまにお姉さま、優しい使用人の皆がいる。

そうしてちょっと意地悪で、とっても優しいレナードさま、貴方がいるーー。


トン、トン、トン。


あぁ、あれはお父さまが歩く音。

お父さまの足音を聞き付けて、私は読みかけの本をパタンと閉じた。

キィィィーー。

居間の扉が開く。

「おかえりなさい!!」

私はぴょんとソファから飛び降りて、帰宅したお父さまに駆け寄った。

「おかえりなさい」

お姉さまはソファに掛けたまま、お父さまに微笑んだ。

「ただいま。ユリアーナ、シンシア、明日はレナード殿がいらっしゃるそうだぞ」

そうしてお父さまの開口一番。

「え! レナードさまが!?」

私はレナードさまが訪ねてくると聞かされて、俄然わくわくした。

「シンシアはお行儀よくするんだぞ?」

「はいお父さま、任せて下さい!」

お父さまは胸を張って得意げに答える私に苦笑して、優しく頭を撫でつけた。私は甘えるように、お父さまの大きな手に頭を寄せた。

「そうかそうか」

そんな私とお父さまのやり取りを、使用人たちが微笑ましく見つめていた。

けれどレナードさまの婚約者であるはずのユリアーナお姉さまは、レナードさまの来訪を聞かされても無言のまま、無表情に窓の外を眺めていた。

お姉さまの横顔に、ぞくりとした。お姉さまは時々、恐ろしく感じる時があった。

ふはぁ~、美人さんって恐いんだぁ。だってお姉さまってば、触れれば切れそうな美貌だもんね。それに引き換え、……とほほほほ。

単純な私の中では、「美人過ぎる」イコール「恐い」の方程式が成り立っていた。



翌朝は、クローゼットの中から一張羅のワンピースを引っ張り出して、何度も姿見の前で確認した。

「こんにちわ、シンシア」

そうして待ちに待って訪れた都会の貴公子は、片田舎にあって眩いばかりだった。

「ご、ごきげんようレナードさま!」

私は取り繕った、精一杯のおすましで出迎える。

まぁもっともおすましは最初だけで、お庭で一緒に遊んでいる内に忘れちゃうのが常だった。

「プッ! シンシア、元気なのはいいけどね。下から可愛すぎるカボチャのズロースが丸見えだよ」

「っ!」

かくれんぼで意気揚々と木登りすれば、あっさりと見つかる始末。しかも、一張羅のカボチャのズロースまで見つかった。

「ほら、シンシア。おりておいで?」

木の下で、両腕を広げるレナードさま。

「ちぇっ、どこに隠れたっていっつもレナードさまには見つかっちゃうんだから」

八歳の私は躊躇なく、その腕に飛び降りた。

「はははっ」

レナードさまは危なげなく、私を抱き留めた。

「レナードさま、次は私が鬼よ?」

「……え、まだかくれんぼをするのかい?」

八歳の私の胸を占めていたのは、子供らしい年長の義兄への甘えと憧れ。

レナードさまといる時、私の胸はわくわくでいっぱいだった。

「もっちろん!」

わくわくの後ろ、ドキドキの芽はまだほんの蕾で、私はただ目の前の嬉しい楽しいを満喫するので大忙しだった。









……懐かしい夢を見た。

目覚めても、幸福な子供時代の余韻がまだ胸に残っていた。

「さて、起きて洗濯から始めなくっちゃ」

ほぅっと大きく息吐いて、寝台を下りてクローゼットに向かった。今はもう、私の衣類には一張羅も何もない。

洗って乾いた物から順に身につけるだけだ。

私はシンシア・モードン。

モードン伯爵家の次女として生まれた。

モードン伯爵領は田舎だけれど、その分自然がいっぱいで豊かだ。

お母さまは私が物心つく前に亡くなってしまったけれど、優しいお父さまと穏やかなお姉さま、親切な使用人夫婦と陽気なコック、皆でのんびりゆったり暮らしていた。

けれど人生、何がどう転ぶかなんて分からない。

「ねぇえ、シンシア、食事はまだなの? ルドモンドもとっくに食卓に着いていてよ?」

待ちくたびれた様子のお姉さまが、厨房の入口に顔を出した。

扇子を片手に、お姉さまは初めて見る綺麗な藤色のドレスを着ている。

「あ、お姉さまごめんなさい! もうじき出来ます!」

「もぅ困った子ね。急いでちょうだいね?」

お姉さまはドレスの裾を翻し、食堂に戻っていった。

五年前にお父さまが亡くなって、私の生活は一変した。

「……お姫様暮らしがしたいわけじゃないし、別にいいんだけどね」

お給金の払えなくなった我が家にはもう、使用人も料理人もいない。

今は、満足に衣食住を整える事すら難しい状態だ。

食費として預けられる金額ではとても三人分を賄えず、私の僅かな身の回りの品はほとんどを売り払っていた。

私が纏うワンピースも何年も前の物で、まるで丈が合っていなかった。

まあ、誰が見るでもないしね。

……あれ? そう言えばお姉さまは新しいドレス……、きっとお姉さまが懇意にしているご友人から頂戴したのね。うん、きっとそうに違ない。

新品のようなドレスを下さるなんて、なんて親切。お姉さまは友人に恵まれている。

「おっ! 焼けてる焼けてる。よっ」

私は焼き上がった肉を皿によそい、義兄と姉が待つ食卓に急いだ。

待たせるのも駄目だけど、冷めた料理を供せばそれもまたルドモンドにブツクサ文句を言われる事になる。どちらも全く以って本意じゃない。

ちょうど良く出来たてを提供する、それはなかなか難しいのだ。

この国では、基本的に女は爵位を継げない。だから今はユリアーナお姉さまの夫であるルドモンドがこの家の家長であり、モードン伯爵だ。

ルドモンドが来て、私の立場は吹けば飛ぶ、紙切れと同じ。ルドモンドの心ひとつで、容易に切り捨てられてしまう。

「ふぅ。世知辛いもんだわよ」

ぐぅぅぅううう~きゅるるる~。

小さな呟きは、大音量で響く腹の虫に掻き消された。






コトン、コトン。

「ユリアーナ、友人が割のいい投資話を持ち掛けてくれた。配当が破格なんだ、こんなにいい話は二度とないぞ」

ルドモンドとお姉さまの前に夕食を並べ、そっと下がる。

私が姉夫婦と食事を共にする事はない。かつて、お父さまがまだ存命の頃は父と姉と三人で夕食を囲んでいた。

けれどお父さまが亡くなり、お姉さまがルドモンドを婿に迎えて以降、私の食事は厨房の調理台が定位置になっている。

「まぁ、そんなにいいお話をいただいておりますの?」

いつもなら料理を供せば、早々に厨房に下がる。

けれど聞こえてきたルドモンドの話に、縫い付けられたようにその場から動く事が出来なかった。

「このチャンスは絶対に逃せない! なんとしてでも借り入れをして、元金の用意をしないとならないぞ」

お父さまの残した遺産はたったの五年で、全てルドモンドの賭博で消えた。

お父さまが私の持参金として貯めてくれていたお金も、全てが泡と消えた。それどころか、今では方々に借金を重ねる体たらくだ。

度重なる金の無心で、早くに亡くなった母の生家とは絶縁状態。父の親戚にも愛想を尽かされて久しい。

こんな状況になってもルドモンドの賭博遊びはなくならず、借金を重ねに重ね、先日ついに屋敷を抵当に入れられてしまった。

この後、売れる物はもう爵位しかない、そんな状態なのだ。

こんな状態にあってまだ、ルドモンドは借金を重ねようというのか。私は湧き上がる怒りに拳を握り締め、なんとか叫び出したいのを堪えていた。

「けれど、当家はもう随分と借金を重ねておりますでしょう? これ以上お金を貸してくれる親戚はおりませんわよ?」

ここまで追い込まれた我が家の状況を知りながら、ルドモンドにおっとりと微笑むお姉さまは、どこか頭の螺子が緩んでいるに違いない。

お姉さまと私は十歳年が離れている。

お姉さまは良く言えば典型的な世間知らず。悪く言えば阿呆だ。

けれど幼い私を、嫋やかな手で撫でてくれたのはお姉さまだ。母の記憶もおぼろな私には、お姉さまの優しい手が親愛のよすがだ。

私にはお姉さまが唯一の家族で、同時に幸せになって欲しいとも思っている。

お父さまの死後、お姉さまが許嫁との結婚を破棄にしてルドモンドを婿に迎えた時も、お姉さまが幸せになれるならいいと思った。

けれど今は、後悔している。

「……少し、当てがある。明日、その人を訪ねる予定だ」

ルドモンドが一瞬だけ、私に視線を寄こす。

嫌な目だと思った。背筋にぞくりと悪寒が走った。

「あら、もう手回しが済んでおりますの? ルドモンドは優秀ですのね」

ころころとお姉さまが笑う。

「はははっ! ユリアーナ、お前は可愛い」

ルドモンドはもう、私に一瞥すらしない。お姉さまとルドモンド、すっかり二人だけの世界だ。

これ以上は見ていられず、私は厨房へと引っ込んだ。