初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
 夫婦の寝室で床を共にして居ても、アーチボルト伯爵夫妻はどちらも枕元の明かりを消さぬまま、天蓋のゴブラン折りで描かれた月夜の空をじっと見つめていた。
「これでは、あまりにジャスティーヌが可哀想すぎる」
 伯爵が呟くように言った。
「そうでわね。前回に引き続き、今宵もあの様に泣きはらして、もしや、殿下には他に心に決めたお相手がいらっしゃるのでは?」
 妻の言葉に、伯爵も『確かに』と思わざるを得なかった。
 望めば、どんな相手でも妻に迎えることのできる立場の王太子が、誰も妻にと望まぬまま適齢期を過ぎようとしているとしたら、考えられる理由は二つ。相手が既に人妻か、男色のどちらかだ。
 今まで流してきた、浮き名の数々から、男色であることは考えにくいから、そうなると相手は人妻と言うことになる。
 人妻、思えば、王太子の結婚相手に相応しい公侯爵家の令嬢達は全員輿入れを済ませている。国内の貴族に嫁いだ方もいれば、隣国の王族に望まれて嫁いだ方もいる。
 しかし、もし王太子が望んでいるとしたら、国内の貴族であれば当然遠慮するだろうから、すると隣国の王族に嫁いだ方と言うことになる。
 だが、伯爵が記憶する限り、どの令嬢の結婚話にも王太子が動じた記憶はない。
 王宮に上がるのは、基本、陛下とのブリッジの時だけだが、その分、率直な陛下のお気持ちや、時にブリッジに参加する殿下と忌憚なく言葉を交わす事ができる、極めて稀な立場にある伯爵にしてみると、今回、いきなり王宮に呼び出され、娘を嫁がせろと重臣の前で命じられたことの方が、納得が行かない。
 いつもの調子で、ブリッジをしながら、『娘の一人を王太子に嫁がせてはどうか』と、王太子の居る席で呟き、王太子の反応を見ながら、話を進める方が陛下らしいし、半年もかけた大掛かりな見合いを行う無駄を省き、話がスムーズに進むと言うものだ。
「やはり、陛下にお断りしよう」
 伯爵は、打ち首覚悟で呟いた。
「そうしたら、娘達はどうなるのですか?」
「仕方ないから、所領内の修道院に送るしかあるまい」
 言いながら、伯爵は美しく思慮深く、多才なジャスティーヌの事を思った。
「アレクサンドラは仕方ないとしても、ジャスティーヌには、可哀想すぎますわ。あのこなら、隣国の王族とはいかなかくても、貴族に嫁がせるのに何の不足もありません。何しろ、列強六ヶ国の言葉を全て母国語のように使えるのですから」
 伯爵夫人はいうと、深々とため息を付いた。
「だが、殿下とのお話を断って隣国の貴族には嫁がせられまい」
「そうでわね。家のような弱小伯爵家では、そもそも、そのようなお話しすら参りませんもの」
 子爵家から嫁いで来た夫人にも、コレといった伝手もなければ、強力なサポートもない。
 もともと、弱小子爵家だった実家は、娘が資産のある上位貴族に嫁ぎ、実家の支援をしてくれることを望んでいたのに、嫁いだ先が同じような自転車操業の弱小伯爵家では、当てが外れたどころか、『早まるな!』と、結婚に待ったをかけたくらいの往生際の悪さだ。
 父親が見つけてきた、資産家で有名な某侯爵家に後妻として嫁ぐという話には耳もかさず、ブリッジの席で陛下に婚約を報告するという裏ワザを使い、陛下から祝福の手紙を貰った子爵はガックリと膝をついて悲しんだが、『ここは自由恋愛の国、アイゼンシュタインですわよ』と言って嫁いだ物の、暮らしは全く変わらなかった、と言うよりも悪くなったと言うべきかも知れない。
 領地も小さかった子爵家とは違い、歴史が長いのだけが取り柄の伯爵家は、子爵家に比べるとムダに領地が広く、所領の維持にかかる費用はバカにならないのに、代々の伯爵にはお金を稼ぐという考えがなかったため、入ってくるお金と出て行くお金のバランスが悪すぎて、結婚当初はそれこそドレス一枚新調出来ず、持参した独身時代のドレスをなおし直し、着回した物だった。
 昔のことを思い出しても、今の状況に目を向けても、夫人の溜め息は尽きなかった。
「アリシア、おまえ、私に嫁いだことを後悔しているのか?」
 何度目かの溜め息に、伯爵が問いかけた。
「いいえ、せめて、私が侯爵家の出身でもあれば、心強い援助を得られたのにと、思っていただけです」
 夫人はいうと、寝返りをうって灯りを消した。
 うっかり、このまま話し続け居たら、朝陽が昇る時間になってしまう。
「休むか」
 伯爵もいうと、寝返りをうって灯りを消した。
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