春雷
2016年 冬 別れ
プロローグ


「次 、会う時は
あなたをさらっていいですか?」



彼は、足を止めて、そう言った。

いつも穏やかな彼から出たその言葉に
私は胸に掴まれたような痛みが走った。


本気なのかと
耳を疑ったけれど、
彼はいたって真剣な表情だった。


「さらうって‥何から?どこから?」


「もちろん、あなたを、
ご主人からですよ。僕は本気です」


そう言って、私の肩に少し積もった雪を、手の甲で優しく払ってくれた。

暗い空から
ちらちらと雪が降っていた。

沢山の言葉が頭をよぎった。
だけど何を言っても陳腐だ。



「高村さん、私、今はそっちには行けない‥」


こう言うしかなかった。
嘘。
行きたい。
本当は行きたい。

本心ではないことを、察してほしくて、
彼の冷たい手を握った。

彼の右手の甲には、あの日の傷が残っている。
それを見る度に、私はいつも哀しい気持ちになる。


「僕、あなたに着いてきてほしいなんて
言いましたっけ?」


そう言って、下を向く私に彼はイタズラっぽい目で覗きこんできた。
唇の片方だけ上がるのは、楽しんでる証拠だ。

私はちっとも楽しくない。
今日、今、私の言葉で人生が
とんでもなく変わってしまうのだから。


琴葉さん、


彼の声が静かに響いた。
名前を呼ばれて、胸がまた痛くなる。


「今はもちろん、僕だって、ついてきてほしいなんて言いません。だけど、次は」



私はもう、たまらず泣いていた。

下を向くと冷たい鼻水が溢れそうだった。



「次に会ったら、あなたをさらっていきたい。
いいですよね?」



肩を撫でるように触れてきて、
ギュッと、彼は掴んできた。
思いの他、強い力で、私は腰から崩れ落ちそうになった。
びっくりして見上げた彼の顔は、

優しくて、悲しい、美しい笑顔だった。

私は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだというのに。

たまらず彼を抱きしめた。

彼も強く私を抱きしめてくれたので、胸の中で
何度もうなづいた。

もう外は寒くて、手の感触が鈍いのに
胸の中だけ、何かとてつもない激しいものが
うずまいていた。





ありがとう

ありがとう

ずっと願っていた。


あなたがどうか
私を奪いにきてくれますように、と。



そして彼、高村紺は
フランスに旅立っていった。






これは彼と、私と、娘と夫の五年のお話だ。


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