さようなら、初めまして。
・エピローグ
コンコンコン。

「ごめんください」

「はい?」

…誰だろう。当たり前だけど人が訪ねて来る予定はない。

「少し…お待ちください」

差し込んである内鍵を回すとガタガタと振動して鳴る音を聞きながら、玄関の磨りガラスに映る黒い影が誰なのかを思案していた。
誰だか解らなくても自然とこうして開けているのは、その影がきちんとした雰囲気を感じさせたからだ。
カラ、カラ…。あ、目の前にきちんとベストまで着たスーツ姿の男性が立っていた。

「こんばんは」

「あの…うちに何か…、あのどちら様でしょうか…」

「突然こんな夜分にすみません。アイ、さん、ですね?」

「は、い。結木ですが」

こんな風に…男性に、下の名前で呼ばれるなんて、一体この男性は…。あいって、名字だと思ったのかも知れないけど。

「あの」

「失礼しました、私は日下部奏介、と申します。これだけでは誰か解りませんね。百子の息子です、と言った方が解り易かったですね」

目尻に皺が見える、優しい顔つきの人だ。

「大家の息子です」

「……あ、すみません。お世話になってます、私…」

「こちらこそ、母親が大変良くして頂いて、母がアイちゃんアイちゃんといつも言うものだから、私もつい、アイさんと呼んでしまいました」

本当に申し訳なさそうに見えた。きっと、普段そんな呼び方なんて誰彼なくしない人なのだろう。

「いえ、そんなこと、気になさらないでください。あの」

「はい、少しお話があって伺いました。夜分に突然なのですが、外出する事は可能ですか?」

百子さんの息子さんが訪ねてきた。それもアポなしで夜に…。何だか、凄く急で大切な話だ。それしかない。

「あの、少し待って頂く事はできますか?私、出来れば、いえ、出来ればではなく、こんな格好では出掛けられませんので」

今の格好はいつも部屋で着てるルームウエアだ。

「勿論、仕度が出来るまで待ってます。ゆっくりで構いませんから」

「はい。なるべく、急ぎますので」

着飾るつもりはないけど、どこに行くのかは解らないが、これよりは多少ましな格好にしないと失礼だ。

「外の車で待ってますから、来て声を掛けてくれますか?」

「はい」

ドキドキしてきた。息子さんが訪ねてきた、私にとってきっと良くない話かもだ。
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