それでも僕らは夢を描く
第一章「猫ではないらしい」
しわだらけになった進路希望調査書を睨みつけて、ため息をついた。
 第二、第三志望はおろか、第一志望すら未記入の用紙。書いてあるのは佐々木こころという名前と三年一組という僅かな情報のみ。
 どうやらこのプリントは私のことが大好きらしい。その証拠に、とっくに提出期限を過ぎた今でも私のもとから離れてくれない。
 四月頭に配られてから既に三ヶ月以上の付き合いになる。
 いつまでも私のもとにいないでそろそろ自立してほしいのだけど、そうもいかないみたい。
 試しにペンを握って紙面に近づけてみる。
 しかし、何も書けない。
 ペン先は宙を舞うばかりで一向に紙面に触れようとしない。
 集中して考えようにも、教室の外から聞こえてくる蝉の声が邪魔をしてくる。普段は眺めのいい窓際の席も、こういう時は心底不便だと思う。
 しかもこの蝉は鳴くのが致命的に下手らしく、小刻みに鳴いては黙る。これをひたすら繰り返している。
 そのリズム感の無さが気になってますます集中が削がれてしまう。
 こんなに不規則に鳴かれては書けるものも書けないじゃないか。
 結局、握りしめたペンが文字を刻むことはなく、私は再びため息をつきながら力なく机に突っ伏した。

「進路なんてわかんないよー……」

 誰もいない放課後の教室に私の声だけが響く。
 私の周りにも進路で迷っている子はいる。
 しかし、そういう子でも最低限、進学か就職かくらいは決めている。その子らが迷っているのはその先だ。どこに進学するかとか、どこに就職するかとか、そういう部分。
 一方の私はと言うと、就職か進学かさえ決めていない状況。もうすぐ夏休みだというのに。
 夏休みと言えば、進学する子はオープンキャンパスに、就職する子は就職試験の対策をする。
 どっちつかずの私はそれさえできないのだ。
 必然的に、焦りが芽生える。
 高校三年生の夏。今までは辛うじて逃げてこられたけど、もう逃げ道はない。
 働きたい場所も、学びたいものもない。昔は少女漫画家を目指していたこともあったけれど、挫折した。
 それからは夢も目標も何もない。
 私の中は空っぽだ。進路なんて考えたところで答えが出るとは到底思えない。
 調査書を乱暴に鞄に突っ込み、二度、三度とため息をつく。
 ただでさえしわだらけの用紙にさらにしわがつく。
 結局、今日も提出することはできなさそうだ。
 帰り際、職員室に顔を出してその旨を伝える。
 いつも気さくで冗談ばかり言う鈴木先生も、日に日に真面目な顔で私を急かすようになってきた。
 焦らなきゃいけない時期だなんてことは私でもわかる。だから、そんな鈴木先生のことを悪く思う気は微塵もない。
 他の生徒はあそこに行くとか、こういう道もあるとか、色々なアドバイスをくれるのは本当にありがたいし、感謝もしてる。
 でも、そのどれもが私には眩しすぎる道のように思えて、手が伸ばせなかった。
 夢も希望もない無気力な私が、光輝く夢を持つ人たちと肩を並べていけるとはどうしても思えなかった。
 だから私は今日も頭を下げて、逃げるように職員室を立ち去った。
 いそいそと校門を抜け、住宅街を歩く。
 今日はいつにも増して暑い。体全体で夏の到来を感じられる。これがまだ序の口だと言うのだから恐ろしい。
 じわじわと体中から汗がにじみ出て、少しだけ不快な気分になる。蝉の声も煩わしいし、私は自分で思う以上に夏が苦手なのかもしれない。
 太陽さんは少し頑張りすぎだよ。一日くらい休んでもいいじゃない。
 町中どこにいても聞こえる蝉の声を少しでも軽減させようと、イヤホンをつける。
 暑さこそ誤魔化せないものの、蝉の声くらいなら遮断できる。
 ここ数日はこんな調子だ。
 流行りの恋愛ソングを口ずさみながら通いなれた道を歩く毎日。
 一曲目を聴き終え、次の曲が流れ始めると、タイミングよく友達からメッセージが届いた。
 画面上部に表示される通知には「今からカラオケ行かない?」との文字が。
 一瞬で、沈んでいたテンションが高まった。
 私は光の速さにも負けない速度でトーク画面を開き、二つ返事で了承した。
 何時間あっても調査書は書けないのに、こういう時だけはよく指が動く。
 本当は呑気に遊びまわっている場合ではないのだけど、息抜きも必要だ。
 心の中で惨めな言い訳をしながらも、私は笑顔全開な顔文字を友達に送る。
 聴いていた曲もちょうどサビに入り、気分は最高潮。
 だから、完全に油断していた。
 蝉の声も、車が通る音も聞こえず、目線は友人とのトーク画面にくぎ付け。
 通り慣れた道だからとタカをくくっていた。
 横断歩道を渡っていると、突然悲鳴が聞こえた。聴いていた曲をかきけすほどの大声だ。
 反射的に顔をあげると、視線の先では若い女性が叫びながらこちらを見ていた。
 直後、鼓膜が破れそうなほどのクラクションが、私のすぐ近くで鳴り響く。
 それを聞いて、ようやく理解した。目の前の信号が赤色であることを。
 そして、気付いた時には、もう遅かった。
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