殻の中の珈琲嬢

第十二話 好きな人


 母は喫茶店の客と親しく付き合ったりはしなかったが、財界の大物だという猫元の別荘には何度か珈涼を連れて出かけた。

 だから珈涼は、もしかしたら猫元のおじいさんが自分の父親なのかと思っていた。猫元のおじいさんは紳士的で、優しい。そうだったら素敵だと、ぼんやりと考えたことがある。

 でも今は少しだけわかる。母と猫元は親しかったけれど、二人の間の空気はたゆたう波のように穏やかだった。母が父の前で見せたような、拗ねたような不機嫌顔や、仕方ないなというような笑顔はしなかった。

 好きな人といるときは、いろんな感情が入り混じるから。穏やかで、いつも綺麗でなんていられないのだ。

「面立ちが変わったわね、珈涼」

 朝の白い光の中、珈涼は海辺のテラスで母と再会した。

 母は華奢で色が白く、それでいて男性のようにぱりっとした白いシャツをまとっている。たおやかな女性らしさと喫茶店の女主人としての自負が、母を美しく見せていた。

「怪我の具合は?」
「大丈夫」
「見せてごらんなさい」

 珈涼は長袖を着ていたが、頬のガーゼまでは隠せない。母は椅子を寄せて珈涼の隣に来ると、頬のガーゼをそっとめくった。

「傷は……一応塞がっているようね」

 懐かしい母の呼吸が頬に触れる。珈涼はくすぐったさに目を細めた。
 母は珈涼の袖をめくって腕の傷も確認すると、痛々しそうに眉を寄せる。

「ごめんね。私が側にいたなら、傷つかずに済んだのかしらね」

 潮騒が鳴っている。母の声に重なって、子守唄のように聞こえた。

「あなたが高校に入った辺りからかしら。たびたび、月岡君が私のところに来ていたの。あなたの世話をさせてほしいと頼みにね。私は拒絶していた。私たちは金銭的に不自由などしていないし、まして一人娘を差し出すほど落ちてもいない。月岡君は真也君と同じくらい子どもの頃からよく知っているけど、それとこれとは話が別よ、と」

 それは初めて聞く話だった。兄の真也はよく母の店に来ていたが、月岡は珈涼が父の家に来てから初めて出会ったと思っていた。

「けど月岡君は引き下がらなかった。私からお店を奪うことをちらつかせ始めた。本当はすぐにあなたのお父さんに頼るべきだったんでしょうけど……私にはそれだけはできなかった」
「……うん。お母さんはお父さんのことが好きだから」

 珈涼が言うと、母は苦笑した。

「あなたもそれがわかる年になったのね。そうね。妻も子もあって、あんな立場の人だけど……私のどうしようもなく意地っ張りで素直じゃないところを叱ってくれるのは、あの人だけなのよ」

 母は決して珈涼を父に認知させなかった。父のことをお父さんよと告げることもしなかった。珈涼はそれを、母が強くて自分一人で珈涼を育てる自信があったからだと思っていた。

 実際は、たぶん逆。母は弱くて、怖がりで、父に素直になれなかった。

「でも、珈涼。あなたを私と同じにしてはいけないと思った」

 ふいに母は心配そうに珈涼を見た。

「私はあなたと二人きりで、穏やかに暮らすのは幸せ。でも私と一緒に居続けるのは、あなたにとって幸せなのかしら。あなたは進学もせず、私の店を継ぐのが夢だと言う。あなたは何もかも、私の望む通りの生き方をしようとしていないかしら」
「お母さん……」
「怖くなったの」

 母は繊細な面立ちに泣きそうな表情を浮かべた。

「あなたを幸せにできると思い込んでいた自分が。何も外のものに触れさせず、二人で殻にこもったように暮らしてきた時間が。そんなときに、あなたのお父さんに月岡君から脅されていることを知られて……お前などいらないと切り捨てられるのが怖くて、もう何も考えられなくなって」

 小さな肩を抱きしめて、母はうつむく。

「猫元さんに勧められるまま、ここに隠れることにしたの。……本当にごめんなさい、珈涼」

 弱いお母さんでごめんなさい。母はもう一度謝って、涙をこぼした。

 珈涼はそんな母を引き寄せて抱きしめる。いいの、と首を横に振って言う。

「いいの、お母さん。お父さんはちゃんと私を引き取って守ってくれたよ。お母さんはお父さんに愛されてる」
「私は……今も信じられないの、あの人が」
「仕方ないよ。人を信じるのは怖いもの」

 珈涼は母の背をさすりながら言う。

「どうしようもなく憶病になって、好きなのかどうかさえ忘れそうになる。でも」

 母の肩に頬を寄せて、珈涼は目を閉じた。
「「それでも望んだなら、やり遂げるだけの強さを持つのよ」って。お母さんが教えてくれたから」

 母は珈涼の背に腕を回す。珈涼と母は、長いことそうやって抱き合っていた。

 母は珈涼の髪を梳きながら、好きな人ができたのね、と言った。

「……うん。好きなの」

 珈涼はそう答えて、月光のような人のことを思った。
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