結局弁償のことはなかったことになったものの、安樹は騒動を起こしたお詫びとして鈴子ママにバイト代のすべてを返した。

「安樹ちゃんのバイト代を取ったなんて言ったら浅井さんに怒られちゃうわ」

「なら黙っていてください。申し訳ないのですが、これだけは譲れません」

 安樹は鈴子ママがどれだけ言葉を尽くしても、差し出したバイト代を受け取ろうとしなかった。

 翌日の日曜日、俺と安樹はいつものように街に出かけた。

「あーあ。間に合わなかった」

 安樹は以前立ち止まったことのある店のショーウインドーの前で、窓に手をついてため息をついた。

「どうしたの?」

「私、あそこにあった時計が欲しかったんだ」

 もう既にsold outの札がかかっているショーウインドーの中を指差して、安樹は目を伏せる。

「碧色がミハルの瞳の色みたいで、作りも綺麗だし……今日のバレンタインの、ミハルへのプレゼントにしようと思ってた」

「あすちゃんが欲しかったんじゃなかったの?」

 俺は少し驚いて目を見開くと、安樹は困ったように笑った。

「欲しかったけど、私より、きっとミハルに似合うだろうなって」

「そんなことないよ。だって……」

 思わず俺が安樹の手を取ろうとしたら、ふいに後ろから声がかかった。

「あら。ミハルに安樹ちゃん」

「楓さん?」

 安樹が意外そうな声を出すので、俺も振り向く。

「ああ、やっぱり。二人して買い物? 仲いいわねぇ、もう」

 くすくすと笑って、楓さんは歩み寄ってくる。

「荷物持ちに竜之介でも使ってやってよ。あの子も家で暇してるから」

「ミハルと二人だからいいんです」

 ぷっとむくれて、安樹は言う。楓さんの前での安樹は、本当に子どもっぽくてかわいい。

「この間家に来た時だって、お前は体調管理が雑だとか弱いとか……あの口の悪さはどこからきたんでしょう。とても楓さんが産んだとは思えません」

「そうねぇ。あの子は父親似なのよね」

 とても俺たちと同年代の子どもがいるとは思えない若々しい笑顔で、楓さんはさらりと言った。

「楓さんもお買い物ですか?」

「うん。今晩の食材を買いにね」

 意外と庶民的だと思っていると、楓さんは面倒そうに肩を押さえながら続ける。

「なぜかイベントになると絶対早く家に帰ってくるのよね、ウチの旦那。毎年いくらでも貰ってくるくせに、去年なんてあたしがチョコを用意してないからって怒ったのよ」

「楓さんのところはいつもラブラブですね」

 安樹がにこにこしながら言うと、楓さんはふふ、とまんざらでもなさそうに笑う。

「あなたたちほどじゃないわよ」

 龍二も楓さんも愛人が山ほどいるのだが、夫婦間が冷め切っているのかといえばそうでもない。竜之介のことは二人とも可愛がっているようだし、事あるごとに頼りにするのはお互いのようだ。

「あれ? その帽子」

 ふと安樹が何かを思い出すように首を傾げた。俺は楓さんが帽子を鞄に入れているのに気づいて、ぱっと頭に閃くものを感じる。

「あすちゃんっ」

「な、なに、ミハル」

「僕、あすちゃんに黙ってたことがあるんだ」

 今しかない。そう気づいて、俺は早口に言う。

「実は僕、しばらく楓さんのところでバイトしてたんだ。鈴子ママのクラブとすごく近いんだけど」

「え?」

 きょとんとしている安樹の前で、俺は楓さんに帽子を被らせる。

「この帽子被った感じ。覚えない?」

 多少強引でも構うもんかと、俺は安樹をじっとみつめる。

「あ……」

 始めは怪訝そうな様子だった安樹だが、やがて目を見開いて楓さんと俺を交互に見比べる。

「楓さんに食事に誘われて、ふざけて腕組んだりして歩いてたことあるんだ。もしかして彼女とかだと誤解してたなら、ごめん」

「そ、そんなこと」

 安樹はおたおたして首を横に振る。

「そうだったのか……じゃなくて。私はそんなこと、全然知らないし、気にしないから」

 あからさまにほっとした様子を見せた安樹に、俺も安堵する。

「それでね、そこのバイト代と鈴子ママのところでのお金を合わせて、買ったものがあるんだけど」

 俺は後ろポケットから小さな箱を取り出して、安樹にそっと渡す。

「開けて」

 こくんと頷いて、安樹はリボンを開く。そこから例の時計が現れるのを見て、安樹は石のように固まった。

「……あ」

 やがて硬直が解けたかと思うと、安樹はぎこちなく言う。

「え、あ、ミハル、自分で買ったんだ」

「僕のじゃないよ」

 安樹の手から時計を取って安樹の左手首にパチンとはめると、俺は言った。

「あすちゃんに、バレンタインのプレゼント」

「で、でも、高いし。ミハルの方が似合うし」

「あすちゃんにぴったりだよ。琥珀は、あすちゃんの瞳の色だから」

 俺たち兄妹のバレンタインは、昔から両方が贈り物をすることになっているのだ。

「それに、私今年は何も買ってあげられない……」

「そんなことないよ」

 俺は安樹の手を取って、いつかのように恋人つなぎに直した。

「今日は一緒にチョコレートケーキ作るんだもんね。それ以上のプレゼントなんてないよ」

 ね、と俺は安樹に笑いかける。

「じゃ、楓さん。僕たちケーキの材料を買いに行くので」

「はいはい。行ってらっしゃい」

「あすちゃん。行こ」

 くい、と手を引くと、安樹は戸惑った顔から、少しずつ笑顔になっていった。

「うんっ」

 手をつないで歩いていこう、安樹。たとえ邪魔する者がいたとしても、俺たちのペースで、ゆっくり進むんだ。君は俺を守ってくれるし、俺は君を守る。何も怖いものはない。

 さあ、今年も最高に甘いバレンタインが始まる。