私は一昼夜寝込んでいたらしい。

 らしい、というのは、その間のことをほとんど覚えていないからだ。

 私が熱を出した時いつもそうであるように、アレクが側について看病してくれたのはかろうじて覚えている。

 だけど、ミハルがいない。

 ミハルが心配そうにしていると、私はがんばって元気になろうとするのだけど、今はそんな気持ちが欠片ほども湧いてこない。

 少し最初の衝撃が過ぎれば、私はいつもミハルに抱いている感情を思い出すようになった。

 ミハルはかわいくて愛しくて、大好きな私の半身のようなものだ。

 けれど同時に、女の子と寝るようになった男でもある。

 夢の中で何度もミハルに出会った。そのたびに、私は笑顔でミハルに手を伸ばそうとして、そして顔をしかめて手を引っ込めることを繰り返した。

 ミハルは一人しかいないはずなのに、私はミハルに二人の姿を見ていた。私にとって愛しくてたまらない片割れと、私の大嫌いな見知らぬ男が重なって見えた。

 アレクは私に何も言わなかった。一度だけ側を離れて、誰かと電話しているのが聞こえた。

 熱は午後には下がったが、私はベッドの上でぼんやりと天井を眺めていた。

 アレクはミハルの部屋で何かしていて、今は私の側にいなかった。

 ふいに携帯に着信があって、私はそれを取る。

『安樹。体は大丈夫か』

 低く無愛想な声は竜之介だった。

 普段の私なら、また私を馬鹿にするのだろうと電話すら切っただろうけど、今はそんな元気もなかった。

「……」

『見舞いに行ってもいいか?』

「いらない……」

 そう答えて、私は何か引っかかったのを感じて顔を上げる。

「どうしてお前が、私の体調のことを知ってるんだ?」

『美晴が俺の家に来ていた』

「……」

『大体何があったのかは、美晴の様子でわかった』

 私は深い海の底でうずくまっているようで、ただぼんやりと言葉を聞いているだけだった。

『話しておきたいことがある』

 電話口の向こうで、竜之介が苦しそうに喉を詰まらせたのがわかった。

『……美晴が手首を切った』

 それを聞いた瞬間、私の胸にまぎれもない痛みが走った。

「み、ミハルが……」

『すぐに手当てをしたから命に別状はない。その後は落ち着いた』

 私はベッドから起き上がって頭を押さえる。

「でも、そんな……」

『俺はこうなることが怖かった』

 竜之介は痛ましそうに言葉を続ける。普段仏頂面で淡々と話す竜之介が、今日は電話を始めた時から感情を露わにしていた。

『俺にとってはお前も美晴も一点で同じだ。俺の従兄弟で、兄弟みたいなものだ。大事な……家族なんだ』

 いつもは全く聞き入れない竜之介の言葉が、今日はすんなりと私の中に入って来る。

『安樹。美晴と離れて暮らすことを選んでくれないか?』

 竜之介は言葉が悪い奴だけど、実際に私たちを傷つけたことはなかった。

『結婚なんて言っても形だけだ。俺はお前が自由に過ごせるように最大限努力する。……お前に好きな男が出来ても、俺は止めない』

 幼い頃、私はよくかっとなって竜之介に殴りかかったりしたけれど、竜之介は決してやり返したりしなかった。

――あんじゅはおんなだから。

 繰り返し竜之介が呟く言葉は、ずっと私を馬鹿にしていると腹立たしかったけど、それでも私を守ろうとして言っているのは間違いなかった。

『俺のことをどう思っても構わない。だがお前と美晴が傷つかずに生きられるのなら……俺はお前と美晴を引き離す』

 私は黙ってうつむくしかなかった。

『じゃあ、またな。体を大事にしろ』

 通話が途切れる。

「ただいまー」

 まもなく玄関が開いて、父が明るい声で入って来た。

「エンジェル、調子どう? あ、寝てる」

 私は部屋を覗いた父に、咄嗟に寝た振りをした。父はそれでそろそろと扉を閉めて、隣室に向かう。

 隣室はミハルの部屋だ。そこで、父がアレクと何か話しこんでいる時間があった。

 私はふらりとベッドを抜け出す。

 隣の部屋では、父がアレクからトランクを渡されているところだった。

「あ、エンジェル。さっき寝た振りしたでしょ。パパにはわかるんだからねー」

 父は私の姿をみとめると、すぐに悪戯っぽく笑う。

「父さん……」

 私が力なく父とミハルのトランクを見比べると、彼は何でもないように手をひらひらさせる。

「ちょっと旅行。ミハイルも連れて行ってあげようと思って、荷物取りに来たの」

「……」

「次はエンジェルを連れて行ってあげるから。ねっ、すねないで」

 かわいく笑いながら近付いてきた父が、一瞬ミハルの姿と重なった。

 反射的に私が後ずさると、父はそんな私を少しだけ悲しそうに見た。

「……エンジェル」

 父はそれ以上近付いたりしなかった。腕を伸ばして、そっと私の頭に手を置く。

「僕は君を愛してる。何があってもそれは変わらない」

 ぽんぽん、と私の頭を叩いて、父は笑って手を離した。

「愛してるよ」

 もう一度そう告げて、父はトランクを持って出て行った。

 父の気配がなくなった後、私はミハルの部屋を片付けているアレクの後ろに立ち竦んでいた。

「アレク」

「まだ休んでいなさい。あとで果物を持って行ってあげますから」

「ミハル……手首切ったんだって?」

 言ってみてから、その言葉の恐ろしさに私は震えた。

 アレクは片付けの手を止めて、私に振り向く。

「どうしよう……っ」

 肩を震わせて立っている私の前で、アレクは立ち上がる。

「少し、話しましょうか」

 アレクは私の肩を抱いて、リビングの方に向かった。

 私をコタツに入れて、ホットレモンを入れて持ってくる。

 私はそれに口をつけることもできずに、ずっと唇を噛みしめていた。

「……美晴は前にも手首を切りかけたことがあります」

 ゆっくりと告げたアレクの言葉に、私はばっと顔を上げる。

「高校一年の時です。美晴が体調を崩していた頃があったでしょう?」

「うん」

 確かにあった。ミハルは学校を何日も休んで、たまに起きたかと思うとすぐに寝込んでしまう、そんな日々だった。

「その頃、美晴の体は成長期だったんです。急速に背が伸びて、声も低くなって、見た目も男性らしくなってきていました」

「覚えが……あるよ」

「それに、美晴は怯えていました。『かわいい』美晴でなくなったら、自分は安樹に嫌われてしまうのではないかと」

 はっと私は息を飲む。

「食べるものも食べられずに、眠ることもうまくいかず、美晴の体も精神も弱りきってしまったんです。……そしてある時、カミソリを手首に当てている美晴を見ました」

 思わずごくりと喉を鳴らした私に、アレクは静かに答える。

「その時は言葉を尽くしてやめさせました。それで、発声の仕方や、男っぽく見えないような仕草や服装などを教えて、ひとまずは落ち着いたのです」

 私はふと思い当って、アレクに問う。

「もしかして、ミハルが牛乳を飲めなかったのって……」

「その頃からです。身長が伸びると怖がって、吐いてしまっていたんです」

 唇を噛む私に、アレクは続ける。

「最近、美晴の声が低くなってきていることに気付いていますか?」

「……うん」

「背も伸びているようです。最終的には、美晴はレオよりも声は低く、背も高くなるでしょうね」

 私はぽろ、と涙を落とす。

「私がミハルを追い詰めてたなんて……っ」

「あなたのせいではありませんよ」

「だって」

「それは美晴自身の問題です」

 アレクはきっぱりと言って、私の目を覗き込んだ。

「あなたと美晴は双子ですが、生まれた時から全く別の人間です。あなたに拒絶されたからといって自分の存在意義を見失うのは、ただ美晴の弱さのためです」

「でもっ」

 私は顔を覆う。指の隙間から次々と涙がこぼれ落ちる。

「私はミハルが好きなのに。大切なのに。なんでミハルを傷つけるようなことしちゃったんだろう……っ」

 アレクは私の頭を撫でてくれた。けれど涙は止まらなかった。

 ミハルが好きで、同時に嫌い。そんなどうにもできない自分の相反する感情がわからなくて、苦しくて、今は涙しか出て来ない。

「しばらくあなたたちを離れて暮らさせてみようと、レオと話をしました」

 滲んだ視界の中で、アレクの包み込むような眼差しが映る。

「あなたの望む美晴ではなく、自分の望む美晴の姿をあの子がみつけられるように。そして」

 そっと私の頬に手を置いて、アレクは告げる。

「あなたには認めてもらいたいのです」

「認めて……?」

「安樹。ゲイではあなたの父親になれませんか」

 私はすぐに首を横に振る。

「父さん以外に私の父さんはいない」

「男では母親になれませんか」

「アレクは私のお母さんだ」

「……それなら」

 アレクは私の目を真正面から見て、その言葉を告げる。

「精神的に未熟で、けれどあなたのことが心から大切な、弱い男の子でも……あなたの兄弟だと認めてやってはくれませんか」

 私は顔をぐしゃぐしゃにして泣く。

 泣きながら、私は何度も頷いた。

「うん……ミハルは一人しかいない、私の兄弟だよ」

 アレクはそっと私を抱きしめてくれた。

 私はしゃくりあげながら、一つの決意を固めた。

 部屋に戻った後、私は携帯で電話をかける。

「もしもし、安樹だ」

 すぐに電話口に出た相手に、私は告げる。

「お前と婚約する。竜之介」

 一瞬の沈黙の後、竜之介が頷く気配がした。

『お前がそのつもりなら、母さんもこちらについてくれるだろう。親父にこれ以上勝手はさせない』

 竜之介のことはずっと天敵だと思っていたが、違う。

『俺はお前と美晴を守る』

 ……竜之介はいつだって、私とミハルの味方だった。

「ありがとう」

 私はそう言って、私の婚約者とこれからの話を始めた。