満月が再び巡って来た頃。イリューシャの元にロジオンがやって来た。

 ロジオンは有翼人種の首都の近くに領地を持っており、一月間その領地とダミアの領地をたびたび行き来して、遠目にイリューシャを見ていた。

 その日、飛翔してジルベール保護領に入ったら、ダミアに詰め寄られた。

「リィを隠したのか」

 雲で月が隠され、妖獣が騒ぎ出す宵の刻。ダミアが銀の瞳を光らせて投げつけた言葉に、ロジオンは眉を寄せた。

 優美を常とする兄は、もっと言葉を選ぶ。確かにロジオンは一度イリューシャの身を奪ったが、イリューシャが落ち着くまでは見守ると、ダミアと合意を結んでいる。

「俺は知らない。イリューシャがいないのか?」

 それを振り捨てたということは、余裕がない証だった。ロジオンが問い返すと、ダミアは顔をしかめる。

「お前ではないと?」

 有翼人種は互いの気配を敏感に察知する。自らの領地に同属が入り込んだなら、眠っていたとしても目が覚める。

「リィの部屋の窓が開いていた。昨日から熱があるのに、そんな体で……」

 精霊界に近いジルベール保護領は、眠るには毛布が必要になる。今の時期は比較的暖かいが、それでも一晩外にいられるような気温ではなかった。

 嫌な予感を覚えながら、ロジオンは口早に告げる。

「俺からイリューシャの匂いがするか?」
「……いや」
「手分けして探そう。自分で動けなくなっているのかもしれない」

 ダミアは少し渋る素振りを見せたが、心配が先立ったのだろう。短くやりとりして分担を決めて、翼を出して飛び立つ。

 暗闇に目をこらしながら、ロジオンはイリューシャを探した。少しなら、あてがあった。

 ロジオンの勘は当たった。イリューシャはいつかのように湖のほとりで、青い蝶に囲まれていた。

 青い蝶は、無性と同じようなものなのだろう。女精の呼吸に引き寄せられて水から生まれいでて、また帰っていく。

 いつかと違っていたのは、イリューシャの様子だった。力なくうつむいて、膝を抱えていた。

「イリューシャ」

 危うい空気をまとうイリューシャに、ロジオンはそっと声をかける。

「熱があるんだろう? 冷えてしまう。中に入ったらどうだ」

 イリューシャは声に気付いたらしく肩がぴくりと動いたが、振り向くことはなかった。

 ロジオンの中に苛立ちがこみあげる。

 番いにしようと精霊界から連れてきたのに、十六年間姿を見ることも叶わなかった。やっとその身に触れることができたと思ったら、まるでロジオンを拒絶するように息絶えるところだった。

 命が失われるよりはと、一月間、声をかけることもなく様子を見守っていたが。やはりあのとき無理にでも自分の領地に隠してしまった方がよかったのではないか。

「おい!」

 前に回り込んで肩をつかむ。

 ロジオンははっと息を飲む。イリューシャの頬に宝石の粒が見えた。

「……お前」

 氷のようにも見えるそれは、結晶化した涙だった。ロジオンの脳裏に、十六年前の光景が蘇る。

 精霊界の洞窟で、青い水が踊っていた。その中で、水から結晶化して生まれた女精。

「帰綱が切れたはずなのに、どうして」
「わからなくなってしまったの」

 イリューシャは涙を拭って弱々しくつぶやく。

「私はどういうもの?」

 ロジオンは立ちすくんだが、一拍後に答える。

「俺から見たお前は、まだ子どものようで」
「うん……」
「ひな鳥のようにダミアに懐いていて、屈託なく笑顔を向けて」

 追い付いてきた焦燥のままに、ロジオンはイリューシャの両肩をつかむ。

 びくりと震えたイリューシャに、ロジオンは目をとがらせた。

「しっかりしろ。消えてどうする。剣を持って戦えなんて言わないが、自分には立ち向かえ」

 イリューシャは目を見張る。ロジオンはその身を抱き上げて眉を寄せる。

「ほら、やはり熱がある。妖獣だって闊歩する時間だ。話なら中で聞いてやるから、こんなところで泣くんじゃない」

 ロジオンはマントでイリューシャを包むと、宵闇に飛び立つ。

 鼻をかすめた甘い匂いに、うずく熱もあった。このままいっそ領地までという誘惑もあった。

「ロジオンは」
「何?」

 それを留めたのはイリューシャのぬくもりと、ぽつりとこぼした言葉だった。

「怖い」
「……だから、悪かったと」
「でも」

 イリューシャは思う。ロジオンには、ダミアにするように身を預けたりはできない。

「もしかしたら、優しいのかもしれない」

 ただイリューシャは少しだけ、胸に詰まる結晶が溶けた気配を感じた。