ひと雫おちたなら
回顧5 きれい
好きって言ってほしいとか、付き合いたいとか、そういうことはあまり思わなかった。
それがなぜなのかは今も分からないけれど、お互いに“いま付き合ってもうまくいかない”という共通認識を持っていたように思う。

私はあと少しで大学を卒業してしまうし、彼は彼でまだ一回生であり、少なくとも残り三年は大学で勉強を続けることになる。
社会人と学生でもうまくいく人はいくだろうが、私にはその自信がなかったのだ。


睦くんが私の思惑とは別に、一人でそれなりになにかしらの事情を抱えていたことを知ったのは、キスをしてから約一ヶ月後のことだった。


年が明けて、お正月ムードはとうに消え、バイト先の居酒屋では新年会の予約で立て込んでいた。
大学ではほとんど単位を取り終えており、授業らしい授業もなく、空いている時間はバイトにつぎ込んでいた私は、新しいシフトを店長からもらうまで何も気づいていなかった。


「あれ?睦くんの名前がない…」

来週からのシフトに『久坂睦』という名前が消えていた。


「え?聞いてなかったの?」

私の言葉にいち早く反応した小塚店長が、ちょっと驚いたように目を丸くしてこちらを振り返った。

「彼、家庭の事情ってことで急きょ昨日やめちゃったのよ」

「─────やめた!?」

「ゆかりちゃん、仲良かったから聞いてたのかと思ってたけど違うの?」

「聞いてないです!」


たしかに私たちは仲はよかったかもしれない。
でも、思い返せば連絡先も交換していなかった。
いつだってバイトで顔を合わせることができたし、わざわざ連絡を取り合うほどでもなかったのだ。


家庭の事情って、なんだろう?
彼はひとり暮らしだったっけ?それとも実家だったかな?
家のこと、そういえば私はぺらぺらとしゃべっていたけれど、彼からは聞いたことがなかったかもしれない。


母子家庭だったとか?
お父さんが会社を経営していてうまくいかなくなっちゃったとか?
それとも家族の誰かが病気かなにかになったとか?

ドラマや漫画で見るような展開を、ひとりで勝手に予測する。
とにもかくにも、明日にでも絵画学科へ行って彼を探し出して、色々聞いてみよう。


もう会えないなんて、頭の片隅にも可能性を感じていなかった。








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