ひと雫おちたなら
3 なにかご不満でも?
炎天下の中、ビル街を駆け足で急ぐ。
暑くてかく汗とは違う、冷や汗が背中を伝っていた。

車両故障のせいで電車が三十分以上も遅れてしまい、十四時からの打ち合わせに遅刻している。
途中で遅れる旨の連絡もしたし、理由も話しているから問題はないだろうが、やはり遅刻というのは社会人としてあるまじき行為である。


冷凍食品を扱う『食卓の縁株式会社』さんは少し前からやりとりしているクライアントで、前の担当者の澤村さんとは歳が近いのもあって言いたいことを言い合える数少ない取引先だった。
でも、新しい担当者はどうだろうか。

大事な担当切り替わりの初めての打ち合わせに遅れてしまったのは、なかなかの痛手だ。


自分の会社を出た時に悠長に聴いていた携帯の音楽をつけっぱなしにしていたことに気づき、立ち止まって音を切る。イヤホンもしまっておく。
聴いていたのは、先日購入したエリック・サティの曲だった。

八年経った今も、やっぱり私は『ジムノペディ』よりも『ジュ・トゥ・ヴ』の方が好きだった。



食卓の縁のビルが見えてきたところで、バッグからハンカチを取り出し、額に浮かんだ汗を押さえて拭く。
太陽が照りつける真夏に走るということが、どれだけ体力を消耗させるのかと肩を落とす。

…やばい。打ち合わせ中に寝ちゃいそう。
疲労感が半端じゃない。


バッグを肩にかけ直して、早足でビルに足を踏み入れた。




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