ひと雫おちたなら
回顧1 美味しそう

久坂睦くんは私と同じ大学に通っていた。
かと言って、大学で出会ったわけではない。

私たちが出会ったのは、居酒屋のバイトだった。


四回生の夏。卒業まであと半年ちょっとというところで、一回生の頃からバイトを続けていた古びた和菓子屋さんが営業不振で閉店することになり、なにか別なバイトを探していた。

一人暮らしするアパートから大学までは電車の乗り換え含め一時間半ほどかかるのだが、その居酒屋はちょうど中間あたりで定期も使えるし、場所的にも文句なし。
いかがわしいお店もあまり見受けられないので、健全な飲み屋街だった。

短期でもOKという触れ込みを見て、履歴書を書いて送って、面接して、即採用という流れ。
よほど人が足りなかったのか、明日から入れないかという申し入れがあった。


「いやあ、本当に助かった。ありがとね、田中さん」

「いえ…私も助かります」


女性店長の小塚さんがにこりと微笑んだので、私も笑みを返す。

三十代後半とおぼしき小塚店長は面接の時から感じのいい人だなと思っていたが、はきはきとした話し方や身のこなしを見ると相当やり手のような印象を受ける。
気を引き締めないと、とひと呼吸ついた。


開店前の店内はぱたぱたと準備に追われて、やや忙しそう。
厨房では数名が料理の仕込みをしており、ホールにいる数名はテーブルやイスの整列、座敷席の掃除をしていた。

小塚店長に案内されて制服(とは言っても店員全員お揃いのラフな濃紺のTシャツに緑のショートタイプのエプロン、ボトムは自由)に着替え、なんかすごい居酒屋の店員ぽいな…と我ながらおバカな感想を思い浮かべる。

初日だからと店長は一人一人に私を紹介してくれて、みんな愛想よく応じてくれた。

ほとんどバイトなのだろうが私くらいの二十代の男女が多い。それより年代が上なのは社員さんだろうか。
中年のご夫婦とバイト三人で回していた前バイト先では考えられない人数に、名前も顔も一気には覚えられなかった。

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